刺 絡 聞 見 録 

刺 絡 聞 見 録 

 

 余弱冠より医学に志し、初め李朱(李東垣・朱丹渓)の説を尊信せしが、後東洞先生の著書を朋友の許に見て、仲景氏の方法の精妙なることを知り、専らこれを尊奉し、晋唐以来の諸大家の家言を睥睨(横目でにらむこと)し、千載の卓見とせり。其の後、また平安に至り、其の嗣ぎたる南涯先生に師事して、傷寒論・金匱要略の講説を聞き、初めは思う、古先生(吉益東洞)の旨に戻り、気血水の三統を以て此れを弁別するは如何と。

 日を経て月を累ねるに従って、先生(吉益南涯)の意味の寓する所を知り、此の説を篤く信ぜり。篤く信ずること数年なりしが、一日一大疑案を生じたり。如何と云うに、凡そ仲景氏の傷寒論は論なるべし。論ならば論を以て主とすべきに、今其の撰次の書を歴観すれば、類聚を以て主とするものなり。然るを如何して論と云うものを以て講説することを得んやと疑う。これより其の疑う所に意を留めて其の遺訓を読むに、なるほど其の一章の体は論なり。論を以て主となしたる証拠は晋唐以来の医書と等しからず。三陰三陽の病名を建て、其の陽病云々の証は何湯之を主る、云々の証は何湯に宜しと云う。或いは与えと云いて証を先にし方を後にす。其の先にするの証に他と混するを別かつあり。其の別かつ所に目を注いで、造次顛沛(わずかの間)にもこれを思う。これを思うこと数年なり。数年にして其の書体はもと論にして、類聚は王叔和が自己に出ることを知り、断然として云う、作者の意味は論にあって類聚に非ずと。これより王叔和の撰次によることを止め、論を主として証を其の混する所に集め、これを別かつの撰次をなす。其の撰次や十余年の星霜を経て漸くなる。なりて其の意を注解し、これを独断と名づけ、先ず其の正文なるもの

を世に公にせんとす。其の詳らかなるは傷寒論或問に弁論す故にここに贅せず(ここではよけいなことを言わないこと)。実に仲景氏の遺訓を読んで其の意味を知ることを得ば、信に我が精気の極みの然らしむる所と、其の身もこれを自負し、其のする所は東洞先生の主とする所を主とし、其の講説する所は、其の排する所を排せず、東漢に溯し仲景氏の主とする所を主とす。是平生其の志行の所を云うのみ。

 其の志行をなす中に独り湯液の及ばざる所を輔翼するものあり。世に云う刺絡の術なり。其の術は?濁の悪血を取ると云うものにして、其の事を平安の荻台州が著せし『刺絡篇』にて知り、郭右陶の『?脹玉衡』を求めて読むに、万病に?あることを覚える。其の後、高陽朴(?谷齊)の『?谷齊医弁』、中神右内の『生々堂医談』『生々堂雑記』を得て、其の事また詳しきになれり。

 然れども常に見ざるの血を見るの術たる故に病家も好まず、また己れも人の好まざる所を施すに心なし。其の施しに心なきは其の事に慣れざるに起こる。慣れざる刺絡はもとより論なし。平日取り扱う湯薬さえ下剤の強きは人の悪くむ所なり。然れども強いてこれをなす。

吐剤に至りては順に下降すべき飲食を逆に吐出せしむる故に、病家はもとより医もまたこれを与えず。越前の奥村良筑の如きは医中の豪傑なり。超然として人の忌み好まざることをなす故に、人もこれに目を注ぎ、其の国に至り、其の治を学ぶ。其のこれを学ぶ者多き中に、独嘯庵が吐方考、荻台州の吐法編あるは、先に其の意味をよく得たる人とも謂うべし。其の書を得て読むものは其の理を知るのみにして、其の事に慣れざるによりて恐怖する所あり。また其の術を受ける人は無知の俗なれば世に異なる治をなすと称す。医其の事に慣れざる恐怖するの薬を与えれば、飲食を吐出して悶乱し、手足厥し、冷汗出で、これにより病家は毒を与えるが如く周章し、或いは死に至らんかと問う。これによりて医もいよいよ恐怖して与えることを欲せず。与えることを欲せざるはこれ他なし。唯其の書を読みて其の理を知り、其の事に慣れざるによれり。

 独嘯庵・台州の如きは親しく其の国に至り、其の人に従事して、其の事にしばしば慣れたるなり。故に苦労する形状をも知り、疾病の治せしことも見聞せし。故に恐怖の心なく施せしならん。また奥村はもとより専門たれば其の許に至る病人、吐は苦しきと云うことを会得してかかり、また吐によりて疾病は治するを見聞して至る故に果然として志定むるものなり。また其の門にては平生の作業たる故に、病人を見ると治を施さるに治すると思惟して、恐怖の心なく薬の分量を定めて与う。これ他なし。慣れると慣れざるとの二つのみ。

 すべて百事は慣れると慣れざるによりて霄壌(天と地のように非常にへだたりのあること)なり。余前に挙げる理は知れども、親しく見聞することなき故、心に恐怖する所あり。恐怖する所あるものは其の事に慣れざるによれり。慣れざる故に其の事をなさず、空しく年月を経たり。

 去年六月、中神右内江戸に出で、脚気を刺絡し、足挙げ難く沈重するものも即時に軽からしむるなどありと伝聞す。秋に至り山脇家法を得て読むに刺絡のことを詳らかにす。冬に至り数年患う所の痔漏を治せんと江戸に来たり。京橋因幡町、畑中分中子に治を請う。其の間加賀医官、吉田長淑子の著せる『泰西熱病論』を見るに、熱病にも刺絡し、痘瘡にも刺絡することを載す。余初めは思う、山脇・中神の両家を訪れ、其の術を学ばんと志し、また吉田氏の著書を見て其の人に学ばんとす。

 時なるかな、小網町三丁目、加田屋長右衛門に寓居して在しが、総州銚子の人、羽戸七右衛門、余が医学を好むことを聞き、其の身刺絡して危急を救いたること、其の他奇効を奏ぜしよしを語る。初夜より中夜に及ぶ故に、其の術を何処に受けしやと問えば、三輪東朔と云う人に学ぶと云う。余其の人の住居を問わば云う、先に銚子に在り、今浅草に寓すと云う。我手を拍ちて曰く、数年学ばんと欲するの術、未だ其の人に会わずして空しく年月を経たり。また他と異なる説を建て、湯薬主とせず刺絡主とすると云うの人に逢うことを得るおや。実に天我に華を得せしむるの時なり。時をば失うべからずと其の居を訪れ、姓名を通じ門に入らんと請う。先生これを許す故に束脩(入門料)して其の門に入り、其の大体を聞くに、古人未発の説にして、先哲未言の所を述べて我に聞かしむ。

 我これを聞き歎して曰く、仲景氏は医聖なり。其の医聖の方法を用いても応ぜざるあり。其の応ぜざるを応ぜしめんとするには刺絡の術、輔翼するに非ざれば病膏盲にあるものに応ずること能わずと、爵躍(こおどりして喜ぶこと)し膝の進むことを知らず。また其のする所を見れば?濁の悪血を去り、渋滞の血をして運動活発の用をなさしむるの術たり。余これにより其の会得する所と、先生の論弁したまう所とを記して二巻とし、刺絡聞見録と号し、其の事を詳審にし、其の経験をも併せ挙げく。これ其の事を親しく聞見せざる者も恐怖の心なく其の術を施すべき為になす。実に此の術は湯液の及ばざるを輔翼するものにして、医たる者知らずんばあるべからざるものなり。若しまた事を解すべき病家あらば、此の書を読ましめ説き聞かさしめば血を見るとも忌み嫌うべきこともなく、恐怖の心も生ぜざらしめん。若し然れば、起き難き沈痾痼疾は勿論、鬼籍に載らんとするの危急促迫のものも平快に至らん。然れば余が医学を好する志も世に顕れ、先生の説も広く四方に流布し、海内に先生あることを知らしめ、其の志、万民をして骨に肉するの華あらしめんとするの主意も達せんなり。故に事を奇にせず、術を隠さず、唯済世を主とし、此の如く其の本末を序すると云うのみ。

 

文 化 十 四 年  丁 丑 孟 春  信 濃  伊 藤 大 助謹 述 

 

凡 例 

 

一・刺絡の主たる所は一身に循環すること能わず、留滞して害をなす毒血を取るの術たり。故に其の要を語れば、其の毒血を取ると云うの一言に尽くせり。然れども其のこれを取るや一所に非ず、また其の毒血は一たれども其の病状は千万たり。故に諸般の形態を挙げて、以て其の治例を示す。

 

一・世医は唯湯液のみ議論することを知りて、毒血を取り真血を循らすの治に疎し。故にこれを難ずる者多し。医難ずれば無知の俗はなおまた難す。すべて医は万病を治するを以て主意とすれば諸技に通ぜずんばあるべからず。これによりて余其の事を詳らかに挙げて疑惑するものを導く。羈束(拘束すること)するものは翔走(羽を大きくひろげて飛びまうこと。拘束の反対)せしめんことを欲す。

 

一・弁論する所のもの、縷々として繁雑に似たり。然れども其の言瑣細にわたるは済世の志、切なる老婆心に出づ。実に此の術は奇に似て奇に非ず。愚夫愚婦もこれを見聞せば危急は救うべし。然るときは学士の為のみに非ず、偏僻仄陋(都から遠く離れた地方)の地にも流行せんことを欲す。よって辞は達意を崇び繁雑を厭わず。俗に通ずることを要とし其の事を記するや瑣細なるあり。

 

一・経験する所の姓名を挙げるに、奇疾難病の如きは省略す。若し其の状態を語らば忌まんことを察してなり。然れども其の取るの血は同じく、其の状態は異なれども、其の根原は他ならざることを知らばまた厭うべきにも非ず。

 

一・世人其の事に熟せざるば其の術拙し。心を用いること切ならば難しきことなし。また治の速やかなるを望むことなかれ。なすべきをなせば自然に去る。故に巻中に其の歳月、日数を挙げるはこれが為なり。また其の刺す処及び凝結するもの、疼痛する処を詳らかに挙げるは、此れに意を留めれば其の大体に通ずること難しからず。若しこれを以て談柄(話のタネ)とし、事実に徴する心なきは済世の志薄きによれり。若し厚く切ならば、管子所謂、精気の極みと云うの地に至るべし。

 

一・刺法、諸書に詳らかなれば挙げず。然れども其の刺すや、他に異なるあり。其の異なるものは癰・疔・便毒の類を刺せばなり。其のこれを刺すや、高く腫れて大なるは常のふくべにてはなし難し。其の口一寸五分、二寸に及ぶものに非ざれば足らず。此の腫れは大、ふくべは小なればなり。また股のつけね、委中、其の他動脈ある処、常には脈を夾んで其の両旁を刺すべし。若し毒血其の処に在れば直に刺して可なり。また証により緩なるは縛緊を用いずして可なり。或いは危急なるか、また血を多く取らんとせば用うべし。然らざれば絡、現われざる故なり。頭上に在るは縛緊を以て、前なれば後にて絞め、後なれば前にて絞めよ。其の刺すの浅深は、毒の凝結多少の軽重によるべし。常は一分五厘。物によりては五分に至る。其の事、予めには定め難し。若し其の術に心を用いること切ならば、言わずとも黙して識るべし。其の識るや、自然の妙にして奇に非ず。天造の然らしむ所なり。

  

刺 絡 聞 見 録 巻 上 

 

三 輪 東 朔 先 生 説  門 人   伊 藤 大 助 筆 記

 

 凡そ事をなさんとするには、先ず其のする所の大体を詳細に知らざれば識定まらず。識定まらざれば其のする所の術拙し。術拙ければ人信ぜず。人信ぜざれば其の術を天下に弘め広く其の説を施し、これを成さしむること能わず。故に余、先生に聞く所の刺絡の術、其の成すべき大体を挙げて開巻第一義とす。

 先生曰く、我先ず刺絡行なわずんばあるべからざるの義を示さん。其の示すや汝に示すのみに非ず、此の義を以て世に公にせば、天下に済世の志ある人にも示すなり。故に余、其の術を奇にせず、万民の疾苦を救うを主とし、胸襟に蘊蓄し秘め蔵すの心なく、価を求めて沽らんとする(善い値段で売ること)の、孔夫子と其の志を一にし、求めるものを求めてこれを教えん。天下の蒼生(人民)をして寿域に遊ばしめんとす。故に事を詳らかにし、其の義を平穏に述べる。

 すべて世人のする所は其の術を高尚にせんとして奇怪(理にあたらぬけしからぬこと)の説をなすものあり。余甚だこれを忌む。然れども人見て其の質樸(ありのままでかざらぬこと)を議せん。すべて物は華麗を好んで文章を浮靡(はででふまじめなこと)になせば必ず縁飾(かざること)する所あり。縁飾すれば反って其の実を失う。老子も言わずや、信言美ならずと。故に余は華を捨て実を主とし、其の言を巧みにせずして述ぶ。

 そもそも我が主張する所の刺絡の術、始め荻台州先生に学ぶ。後異人(秀れた人を言う。本書では天橋将監を指す)に遭い其の術を切磋琢磨して其の極みを究めたり。余異人と切磋琢磨したりと云うと云えども、神仙狐狸の異に非ず。好んで異を談ずるは孔夫子の深く戒める所なり。余が異とするは、他と等しき異に非ず、其の異人の伝は後に載す。しかしより其の術を行なうこと、已に四十余年、今其の齢七旬年来、其のする所を以て術の至極を知り決断して云う、此の術無くんば世の沈痾痼疾はもちろん、危急促迫のものを治すること能わずとせり。

 実に刺絡の法は天下第一義の術たるなり。如何と云うに、薬力及ばざる処を刺して、?濁の悪血を去れば、渋滞の真血、運動活発して其の用をなす。其の術の奇なるや、妙なるや、言語に述べ難く、これを受けて知り、これをなして知るに非ざれば、其の事語りたりとて人信ぜず。況んや此の術を拒み忌むの人をや、其のこれを拒み忌むものは神功あることを見聞せざる故なり。若し実に見て、実に其の術を受けて其の神功あることを見聞せば、実に然りとせん。唯書を読んで、其の理を紙上の空論に知り、湯液を以て万病を治するものとするの人は刺絡の妙用あることを知らずして云う、此の如くの証に此の如くの湯液を与えたり。与えと云えども治せざるは、これ不治の証にして命なり。命は如何ともし難し。我吾が知る所を尽くしたれば、是人事を尽くして天命を俟つと云うものなりと云う。     

余其の説を聞いて云う、其の人にして其の人の知る所を尽くさば、其の人の人事は尽くしたりと云うも可なり。然れども天下の術を尽くすと云うべからず。余も若年より古今の医書を歴観し、諸家の講説を聞き、其の善とするものを探りて、これを疾病に施すに、治するあり、治せざるあり。後刺絡の術に通じて、これを先に不治とするものに施すに治すること十に六、七なり。其の不治とするもの六、七治することを得て、先なるものに比すれば万病治さずと云うことなきに等しきなり。実に湯液の及ばざる所を治して、起死回生の神功あるものは、刺絡の術を措いて天下議すべきものなし。

 越人?の太子、已に死せりとするものを治せしも刺絡の術なり。然らば刺絡の術は天下第一義にして、扁鵲名医と称せられ今に至り、日月と共に其の名声天下に伝播し雷の如く震え、古今に超絶すと呼ばるるものは刺絡の一術によれるに非ずや。彼実に名医たればこそ其の時湯液を議せずして刺絡これなす。其のこれをなす所以のものは湯液及ばざることを知ればなり。然るときは刺絡の術は天下第一義たることを知覚すべきなり。世間其のなす術は天下第一義たることを知らず、唯扁鵲の名医たることを知る。これ其のなす所以の術如何たるものと云うことに意を留めず。唯其の伝播する所の名声を知るのみなり。若し其のする所の術に意を留めれば、湯液を議せずして刺絡する所以を知るべきなり。余此こに歎きありて、刺絡の術は湯液及ばざる所に及ぶの術たることを講説し、天下に公行せしめ、天下の医生に其の術、衆に施して一失なく、沈痾痼疾を平癒せしめんとす。此れ我の志にして、衆人の非命を命と云うを深く憂うるより起これり。

 凡そ人身は毛髪爪牙の毫末までも天稟の神気充満して、運動暫らくも間断なく活発なり。然るを一度其の神気の運動、其の機を失すれば転輸の功を失して?濁となる。?濁となれば、若しくは腐敗し、若しくは凝結す。其の腐敗するものの大なるは癰・疔となり、小なるものは瘡・?となる。また凝結の大なるもの、腹に在りては堅塊となり、小にして四肢に在れば筋骨について疼痛拘攣は軽く、重きは機関について鶴膝風の類となる。また腐敗せず、凝結せず、皮裏に粘着するものは真血の発達を障礙して痒癢堪え難き疾病となりて浸淫(じわじわと進行する)す。若しくはまたしからざるものは肩背強急するか、或いは手足麻痺せしめ、篤劇なるは早打肩の類となる。これはこれ外に在りて顕然たるものなり。また内に在りて疝となりては腰腹攣痛なさしめ、或いは脚気衝心の証となり、また発して下疳・便毒・痔・痔漏となる。これ腹に在りて堅塊となるものに比すれば其の凝結は甚だしからず、時有りて鼓動するものなり。其の鼓動の微なるものは淋病・インキン・田虫・寸白虫と称するものとなる。其のなるものは下にあり。下に非ず上を侵せば発狂となり癲癇となるは心にかかるなり。また口舌を侵せば瘡・口熱・舌疽・虫歯・走馬牙疳となり、眼目を侵すの急なるものは風眼となり其の明を喪わしめ、緩なるものは諸般の眼疾をなす。頭脳を侵せば頭風・偏頭風・脳漏・鼻淵・?肉の類となる。また其の変なるものは?虫を生じ、五疳・驚風となり、また其の変の変なるに至れば、種々奇怪(不思議なこと)の疾病となる。然れども其の根本を研究すれば、一?濁の血より外なし。故に其の?濁の血を去るにあり。其の去るや、腐敗の多少、凝結の軽重によりて一ならず。一ならざれば其の去るの年月に等差あり。また其の刺して血を取るや、一処ならず、其の血の所在に従う。すべて上にあるは肩背及びそれより上にて取り、下にあれば委中及びそれより下にて取る。中なれば背骨に就いて取り、手に在るは尺沢にて取る。取れば其の物去りて真血清鮮故、循環・流暢・渋滞せずして其の機ものの如し。

 凡そ此の理を極めて其の事を考えるに、風寒暑湿の感ずるも、起居常を失して中傷すると云うと云えども、真血を中傷することは少なく、?濁して留滞するものに感じて種々の病症をなすもの多し。これにより発汗吐下し治するあり。また刺して治するものあり。常理を以て論するときは、内に湯薬を服せば欝滞の神気舒暢して、其の病しむる所以のものを去るべきなれども、疾病は変なり。変なれば一般に非ず。湯液を得て去るあり、去らざるあり。また其の去るものも刺絡して去るべきものもまた少なからず。況んや去らざるものをや刺絡用いずんばあるべからず。

 去るべきものを刺絡して去るは癰・疔・瘡・?、其の他の雑症に多し。先ず刺して其の腐敗すれども、膿血とならざるものを取れば潰乱せんとするの勢いを速やかに挫く。取りひしげば真血の流暢渋滞せずして循環す。世医は膏薬を貼して、腐敗するもを去るに疎く、其の潰乱するを待つ。何ぞ其の毒血を去るの理に疎きや。

 また早打肩の如き危急の証は刺絡に非ざれば救い難し。此の時、湯液は無用の長物の如し。扁鵲のする所を以て知るべきなり。

 其のこれを刺すや上を刺して血出ざるものは下部を刺して気を下に導き、上の鍼口に吸瓢をかくるときは血出で気通ず。此の理を考えて、此の時、湯液無用の長物たることを知るべきなり。

 すべて湯液は先ず腹中に入りて其の神機の妙用によって一身に循環するものなり。若し変の変なる此の如くの危急の証に至れば、其の妙用をなすの神機、其の妙用をなすこと能わず。なすこと能わざれば何によって其の病所に至らんや。至らざれば是無用の長物たり。またたとえ有用をなすの具たるも、腹に入り伝輸して其の病所に達するに間あり急卒に施し難し。

 刺絡の術は然らず。其の業に熟すれば刹那の間に刺して血を吸わしむ。然るときは刺して血を取ると云うものは天下第一義の術にして他に比すべきものなし。これ多弁をからず、明白燦然(あざやか)ものなり。此の如く事を詳らかに弁論するにも、学者会得せずして云うものあらん。弁は弁なり。然れども其の術、危急には施すべし、緩慢のものには施すべからざるものと云わん。是猶一を知りて二を知らざるの言なり。

 すべて?濁の悪血、其の変態や一ならず。或いは急なるものを、証を異にして其の揆を一にす。其の初め気を塞ぎ後は寒熱の変をなし労?となる。すべての疾病此の理と等しく、疼痛するもの、拘急するものも皆?濁の悪血然らしむるの義を知るべきなり。若し天稟の常にして、?濁の悪血なくは前に挙げる所の如き諸般の病状をなさんや。其のなすものは?濁の悪血、気血の循環を重きは阻隔し、軽きは渋滞せしむればなり。故に我は先ず其の阻隔し渋滞せしむる悪血を去るの治をなす。其の治をなすや、刺して取らざれば去らず。然るときは刺絡の術は悪血を去り、神機の妙用を輔翼するのものたることを知るべきなり。此れ其の術を用いるの大体なり。汝、意をこれに留めて其の術を衆に施せと、余頓首再拝して云う。

 吾実に先生の示すによって数年の疑惑一時に解散せり。なお此れを後学に伝えて津梁 (手引き)となさんと詳らかに其の事を記するものなり。

 先生また曰く、汝が為に刺絡すべき大体を弁じたれども、未だ刺して血を取るの主意を弁ぜず。故に詳らかにこれを弁ず。

 凡そ術は精熟を貴ぶ。何故ならば先ず其のなすべきと思うことをよく会得せざればなし難し。如何と云うに、医小技なれども死生存亡のかかる所なり。若し其の術精熟ならざれば反って人を殺す。故に先ず其の志を正大になし、其の心中は邪無くすを思い、造次顛沛にも其の術に益すべきことを工夫し、心を用いること丁寧なれば自然と精熟す。精熟すれば其の病証を聞くときは鍼を下す処を知る。知れば治、不治のこともまた問わずして果然たり。これ其の術に心を用いるによれり。

 さて其の術を施さんとするには事を軽忽にせず、気を気海丹田に収め、泰山崩れるが如きことあるとも動揺することなく、疾病の運動を術の自然に任せ、利の為に動かず、尊貴卑賎の等差に拘らず、阿諛(おもねりへつらうこと)せず、驕慢せず、天下の疾病、我見て刺さば治せざるの理なきと断じ、夫子所謂桓?(春秋時代の宋の大夫。孔子を殺そうとした)、我を如何とたまひし如く、命の在る所を知り、禅家の所謂、大悟徹底(おおいにさとり、なんの疑問もなくなること)すると云うが如き志となり、疾病を治せざれば実に此の術はなし難し。若し然らざれば病家の狼狽周章するに恐怖し、若し奇病・怪疾、または沈痾痼疾年月を経て累するものに遭うと心必ず顛倒錯乱すればなり。

 さて鍼を下すや世に禁穴・動脈と云うものに拘ることなかれ。其の故如何と云うに、其の取るべき毒血其の処に在ればなり。若し無くして刺せばこれ妄なり。有りて刺すは、これ毒の所在に従うなり。其の毒の在るや処を定めるあり、定めざるあり。定めたるものは其の定めたる処に刺す。定めざるものは委中・尺沢に刺すなり。手足の如き処を定めて痛むあり、其の痛む処を按じて、凝るもの、痛むものを刺さずに至れば禁穴なし。

 すべて血の凝るや一処に凝るは気其の凝るものを透徹すること能わず。能わざれば痛む。また其の凝るもの循ること能わず、腐敗すれば膿潰す。膿潰すること能わざるは田虫の如きものとなり、痒癢堪え難きに至りて浸淫す。かくの如きものは其の物を環り刺して取り、高く腫れたるものは刺して吸わしむ。此の理を知らざれば、或いは禁穴とて恐れ、また動脈とて恐る。何の恐れることあらんや。恐れざるもの、毒血其の処に在るなり。すべて古来より動脈とて恐るることなれども、一分や一分五厘の鍼入り、一身の血を出すの変あらんや。たとえありともこれ天命なり。若し刺さずして毒其の処に凝結するもの、潰乱して膿血となりて出れば鍼口より十倍の傷破をなさん。然れども膿潰して一寸や二寸の腫物にて必死と期することなし。此の理を会得せば禁穴・動脈恐るるに足らざることを知るべきなり。発背の如き其の大なるものに至れば背中潰乱するに至る。然れども必死とせず、僅か一分や一分五厘を下す鍼にて何ぞ死に至るべきと云うことを心によく会得せぬと、禁穴・動脈と云う覊束に拘りてなされぬなり。其のなされぬもとはと云うに、如何して死すると云うの理を究めず、唯紙上の空論に拘ればなり。此の理をよく窮めざれば其の術施し難し。故に刺絡をなさんと欲せば、前に弁ずる如く、一身の理を究め、精神を竭して心気を養い、顛倒錯乱せざることをなしてなすべし。若し然らざれば治すべきも其の人恐怖して我に託すること薄し。薄しと云うものは心を用いること厚からずして薄く、我心に動揺する所あればなり。若し動揺せざるに至れば、たとえ病家に変ありとも擾乱せしめず首尾を克す。然らざるときは疾病を治すること能わずして、反って衆の誹謗にあい、其の術行なわれ難く、救うべきも救うこと能わずに至る。医たるもの、此の所に意を留めて鍼を下さんことを欲すと、実に先生の弁ずる所の如し。医たる者、慎んで此の言ぞ模範として其の術をなさんことを冀う(こいねがう)ものなり。

 

 

治 験 聞 見 録 

 

 羽戸七右衛門、我に語る。銚子に大工あり、年五十余りなり。精神慘々(心を痛めるさま)として云う、我に子三人あり、今発背を患い、其の径八、九寸。此の如くなるときは命数これが為に尽きるなり。若し死せば子は未だ幼稚なれば必ず路頭に迷わん。

 余云う、汝患うることなかれ、我に一術あり不日にして治せん。我が許に来たりと云う。其の人即ち来たり治を請う。故に其の発背を環り潰乱の口より生肉の間、五分ばかり隔てて鍼を下し、吸瓢をかけ、また他を刺し始めの如し環らす。其のこれを刺すや八、九箇所許り。混濁の血、涓々(水がチョロチョロ流れるさま)として出づ。かくすること二回にして其の日は帰る。

 また翌日来て云う、我が病大半を去るに似たり。いかんと云うに昨日此こに至るに短気して堪え難く、僅か四、五町(一町は109m)にて四、五度休めり。今日来るには休みせずして至ると。余悦んでこれを刺すこと昨日の如し。かくすること十余日を経て瘡口漸々に収縮して癒えることを得たり。余此の如くして癰・疔を治するもの数人。それのみならず、?疽の類も其の指の本節を緊束して、腐爛せし環りの生肉の境を刺し、悪血を出し膏薬を貼し、此の如くなること二、三度に及ぶときは治す。

また云う、我が子長は女故婿を取り家を続けしむ。論語の講席に列したりしが奄然(たちまち)として胸痛を覚え、席を去りて胸を摩すれば血を吐すること二、三合。これにより精神昏沈。唯云う、肩背強急すと。故に速やかにこれを刺し、其の凝結を吸わしむ。明朝可否を問えば、しきりに睡眠を催すと云う。其の意に任ず。未申の時(午後三時頃)に至り起きて曰く、精神爽快なり。粥をすすらんと云う。三椀をすする。また其の夜講説を聞かんと云う。病後勤めて至るは不可なりと諌めども聞かずして至り、講終わりて帰るに病まざるものの如し。

 余問いて曰く、膈噎の如きも治することありや。

 先生曰く、脊骨七、九の椎骨に近き所を刺し、血を取るべし。其の取るや、脊骨低く平なる者は左右刺して瓢一箇にて取り、若し高くは二箇にて取り、また委中にて取る。取ること久しければ必ず治す。

 其の言に就いて問いて曰く、余去年の冬、我が国の中の条と云う処に中嶋源蔵と云う者あり。余が名を聞いて治を請う。至りて見れば膈噎なり。食すれば忽然として吃逆の如き症を発す。発すれば食を止め、胡椒一、二粒噛み砕いて呑めば吃逆するもの下降す。常に白沫を吐出して止まず、其の劇しきや胸痛堪え難く、鮮血と淡沫を吐す。親族これに周章し死を待つと。後余其の劇状を見ず故、附子理中湯に消塊丸を兼用せり。然れども治せず。其の後また至りて聞くに、其の吃逆の如きもの、発するや堪え難きときは臍傍に衝くものありて、脇下に逆上す。逆上すれば背に徹して痛む。痛む処は膏盲の下なり。

 按腹すれば攣急強く、臍傍より脇下に一大縄をはるが如く。背の痛む処は一大蛤を伏せたる如くして肉隆起す。壮夫拳を以てこれを打つ。罷弊(疲れる)すれば他夫また代わりて打つ。須臾にして平すれば痛み止む。止めば衝く物も復帰す。

 其の病因は酒徒の常にて下血数年なりしが血止まりたるより発すと。余臍傍の塊を目的として大黄牡丹皮湯を与え、兼ねるに括楼薤白桂枝湯を用う。終いに治せず他に転ず。転ずれども治せずして死と質問すれば先生曰く、其の隆起を刺せば治すべし。若し此の如くの証に遭えば痛む処を刺すの他なしと。余歎息して云う、医は博く学ぶずんばあるべからず。学寡きなれば固陋(見聞が狭くてかたくななこと)、此れを以て知るべし。

 痘瘡皮下に隠々として発せざるあり。また発して日を経て七、八粒、黒痘に変じて痒きあり。是危急の証、如何して治せんや。

 先生曰く、治すべし。然れども病家は無知にして血を見て忌む。其の甚だに至っては云う、刺絡すとも助かるまじ。若し救われず死せば肌膚を毀傷するのみなり、と束手して死を待つ。此の時は如何ともし難し。若し死生を我に期せば隠々たるものは、反鼻を末とし蜜にとき、薬を忌むには我が口に含んで彼が鼻を塞ぎて受けさするときは服せさしむべし。

必ず発出す。また黒痘に変ぜんとする者、先ず変ずるものに刺し、血を出さしめ発散剤を与えるときは変ぜずと。余云う、病家の恐怖はもとより論なし。医にして恐怖するは如何の心ぞや、実に悲しむべきなり。

 姉の孫四才にして痘瘡を患う。十五日目に危急なり。至り見れば寒戦咬呀す。薬を与えてこれは救えり。其の後、口の開け合わせ難し。歯茎に白く糊の如きものあり。これを紙縷(こより)にねばらし取る。強いて口を開けて見れば、咽口及び舌に出痘し、稠密にして白胎あり。其の胎の剥げし処は真紅なり。故に運動自由ならず、乳を呑むこと能わず。茶碗に受けさせて与う。其の他氷餅(寒中に凍らせた餅。信州や東北地方に産する)を溶きて与えるのみ。煩渇を目的に石膏剤を与え、日を経ずして死せり。

 先生に其の治を問わば曰く、止むことを得ざれば其の児の力こぶの中程を刺し、血を吸わしめよ。咽喉緩まり乳を吸うべきなり。小児は吸瓢は忌むもの故に口にて吸うべし。是も今は悔いて及ばず。若し此の如くの証に逢えばこれを施せ。

 問いて曰く、発狂は如何して可ならん。これも刺すべきや否や。

 先生曰く、発狂は潅水に勝るものなし。これを十分になし、発汗剤を与えて汗を取れ。

かくすること数日なれば心を侵すの毒血、発出して癒ゆ。若し癒えずは足心(湧泉)と委中とを刺せよ。必ず癒ゆ。  

 問う、大便秘結に大黄剤を与えれば通利爽快。然れどもまた秘結するは如何。

 曰く、一日に一度潅水すれば薬を服せずして自然に通利す。すべて潅水は鬱結して発達し難きものを発達するの能あり。故に積聚数年癒えざるものに、寒三十日、水を与え外には潅水して治するあり。此の意を以て工夫せば、発狂及び痘瘡の黒陥に施して気血融通するの旨趣にも通ずべし。

 先生一日霊岸嶋に招かるる。病家に至れば他医其の坐に在り。病人を見れば噤口反張して手足彊直。医は云う、痙病と。

 先生診察して曰く、破傷風なり。此の人、近日損傷する処あらんやと問う。曰く、先日大根漬けの石にて、むこうずねを強く打ちて傷れるのみと云う。其の処を見れば紫黒になれり。これ病源なりと刺して血を取る。取りて臥さしむ。翌日人来て曰く、今日人事を知り糜粥をすすれり。此の説話に就いて、我が友小林坦斎云う、余此の間、大工五分鑿にて膝頭を傷り腫気を催し彊直するものに桃核承気湯を与えたりしが、瀉下七、八行にして翌日歩趨心に任ずと。これ岑少翁氏の伝なりと。実に先生の放血と一般にして?血を逐うの活手段と称すべし。

 余畑中氏に至り治を請うの間、痔漏を患う者数十人、毎日群集して種々の疾苦を説話するに、痔・痔漏を患う者、十に八、九は、若しくは膿淋、或いは下疳・便毒・脚気の類を患いてこれに変あり。また兼ねて患いあり。

 是によりて思うに、凡そ?濁の毒血、前に渋滞すれば膿淋となり、凝結して潰るることの遅々たるものは下疳・便毒となり、後に在れば痔・痔漏となる。若し発出せず内にあるものは脚気衝心となるあり。よく其の根原を研究すれば?濁の毒血より外なし。橘家の『脚気説』にも湿瘡の変なることを説けり。

 また療治の手段を聞見するに、痔は綿に膏をつけて肛門に入れ、漏は其の漏穴より肛門に通をつけ、糸を以て結び切る。結び切るは其の穴に膏を填む。其の間毒穴に刺すの膏に吸われて退散す故、糊の如き膿血淋瀝として出づ。日を経て、月を累ねる従って毒尽き、口収縮す。これ皆凝結するの毒を導き出すの術たり。これによりて其の根原は膿淋・便毒・下疳・痔・痔漏・脚気衝心するものの類は一般の毒血たることを知る。また山脇家法に便毒の初め、委中を刺せば消散することを云う。先生に此の義を質問すれば、委中を刺すより其の凝結する処を刺して其の毒を尽くすの善にはしかず。また痔・痔漏も其の処に凝結強く膿あらば、其の環りに刺し、また甚だからぬもの、委中を刺して取るべし。其の刺すや懸癰も同じ。然れども速やかなるを望むことなかれ。速やかなれば必ず眩暈を発し、恐怖して止む。余唯緊束して血を多く取ることをせず、俯臥せしめ吸瓢に任せて取る。取ること久しければ必ず治す。其の治するや痔・痔漏・懸癰及び便毒のみに非ず、疝と称し腰腹攣痛するものも治す。是其の病源を推し究めれば便毒・下疳・痔疾とならず、唯凝結して腐敗せざるものなり。古より便毒を呼んで血疝と名づけ、其の名に因る。其の本原は一般の毒血たることを知るべきなり。

 疝と云い、膿淋と云い、痔と云い、痔漏と云い、懸癰と云うも、唯前後に在りて形状を異にするのみ。其の本原は?濁の悪血致す所なり。此の義を研究して刺絡をなすときは、其の術神なることも知るべし。若し疝にて強く攣急して腰腹の痛み甚だなる者、委中のみに非ず、股のつけね動脈の処に凝結するもの多し。これを刺して血を取るべし。若し其の凝結少なきは動脈を挟んで両旁を刺して血を吸わしめよ。吸うときは其の痛み乃ち退散すすと。

  此の教示によりて知覚することあり。臍傍に塊あり、手に応ずるもの必ず諸般の雑症をなす。凡そ其の塊、上に引くあり、下に引くあり。下に引くものは、婦人は月経の変多く、必ず大便秘結す。男子も血証を現して痔疾となる。また上に引くものは必ず心下に衝き、脇下に迫る。俗は血積とも肝積とも積聚とも云う。其の甚だしきに至りては、脇下に攣急して一縄を張るが如し。かくの如くものは半身不随・膈噎・反胃・労?の類となり、不治のものとなる。

 先生に其の治を問わば曰く、背骨、其の塊に当たる処に必ず凝結するものあり。其の処を刺して吸わしめよ。それのみに非ず、委中を兼ねて取るべし。必ず治す。先に浅井南皐が★瘡約言を読むに、臍の左右上下に塊あり。手に応ずるものは必ず★気ありと。

余が弟を藤治郎と云い、幼年の時より臍傍に塊あり。此れによりて云う、必ず下疳瘡を患うべし。青樓(遊郭)に登るとも★気無しを選ぶと云う。後五、七年を出づして下疳を患う。これを数人に試すに悉く然り。今を以てこれを考えるに、★気のみに非ず、前に挙げる諸証を患う者、必ず塊の手に応ずるあり。

 余先日瀬戸物町裏河岸に寓居する観相家、晴雲堂は平安にての知り人なり。其の居を訪れ、観相を請う。後医事に及び痔漏を患うことを述ぶ。其の人云う、すべて下部の病、一朝一夕に発するものに非ず。幼年より股の内に磊磊(石のかさなりあっているさま)たるものあり。漸々上がりて股のつけねに至り、外発すれば便毒となる。便毒とならず逆上すれば肩背に凝るあり。また世に云う癇証となると。

 余云う、我が近隣に十歳許りの女児を診腹するに、臍傍手に応ずるの塊あり。是によりて思惟すらく、婦人の?血病と称するもの、月経通じて後、其の経水漸々に留滞して血塊となるものとせしか。此の児や我が弟の塊を以ても、其の胚胎は幼少より在ることを知ると語れば、晴雲堂云う、足下の見る所、実に然り。必ず其の毒は母の胎中より受け来ること明しと。

 先生にこれを質問すれば、其の遺毒の凝結のもの、諸般の疾病をなすものを治するには其の堅塊の当たりなる背骨に凝結するものあり。これ及び委中を刺すに非ざれば治し難し。 此の言を以て観れば、山脇家法に挙げる所、浅井南皐が云う所、晴雲堂の語るもの、先生の論ずるもの、符節を合わせたるが如し。学者、此の論弁を容易に見ることなかれ。幼稚の者に堅塊あるを見れば父母の遺毒たること明し。其の毒深くに在す。浅くに位するものは頭に発す。世俗もこれを胎毒と知り称す。之を治するに、外より薬を伝えるときは必ず内攻して眼目を侵す。

 芝田町に住する小泉玄道は我が朋友にて信の佐久郡、矢嶋の産にて疾医の道をなすが曰く、我に奇方あり。絲瓜の霜(ヘチマの黒焼き)を砂糖に和し、頻々に服すれば黒便を下して治す。先生に此の事を問わば曰く、絲瓜の水は能く疝を治す。疝は先に論ずる如く血毒の変なり。其の疝を治するの絲瓜なれば血毒を下部に導き去るものなり。実に絲瓜は血を能く和すの能あり。耳中疼痛して堪え難き者、絲瓜の水にて天南星の末少し許りを和して耳にさせば即座に止む。これ其の功の一つなる趣を知るべきと云々。

 此の説話に就いて聞きしことあり。江州(滋賀県)より来る一商、余に示す。凡そ初生の児、母の胎を出るとき已に取り上げ其の肩を見るに、他より一等赤色なるあらば剃刀にて薄く切り、口を以て吸わしめよ。胎毒・丹毒発出することなしと。然れども我が子、我が孫に非ざれば他はなさしめず。済世の志ある人は愛を割りてこれをなせ。

 南涯先生の所在どき、広瀬純助と云う医生我に語る。我が弟十二才どき月代(さかやき。男が前額から頭の中央にかけて髪を剃り落としたことで成人のしるし)せんことを請う。故にこれを剃るに眠るが如き形をなす。叱るすれども応せず、驚いてこれを見れば精神昏冒す。横に臥さしめ脇・章門を剃刀にて薄く切り、力を極めて血を吸う。吸うに従って漸々に正気に復す。後急卒の証には必ずしも施せ、回生の功ありと云う。先生に其の義を問わば、韮葉鍼(ハ鍼、三稜鍼の類)にて刺し吸瓢を用いるには如かずと。医たるもの是を思え。

 労?は世に云う不治の症なりと。先生もまた不治とするや。

 曰く、我が不治と云うものは真の不治にして、治すると云うものは世医の不治とするものなり。我不治とするものをよく治すると云うは如何となれども、彼古今の医書に論弁するの湯液を与えるか、或いは灸数千壮をなすが其の極めなり。余は然らず。先ず金匱要略

及び他に弁論する虚労と云う名や、五労七傷などと云うものに拘泥せず、余が目的をなすは、一身に循環し栄養すべき真血を、渋滞せしむる?濁の毒血を去る、運動活発の用をなさしむることを主とす。如何となれば?濁の悪血あれば真血達すべき処に達すること能わず。能わざれば必ず鬱結す。鬱結すれば必ず心気を塞ぐ。塞げば其の人応対を好まず。好まざれば已に毒血の多きなり。多ければ気血日々枯槁す。枯槁すれば往来寒熱を発して日?には汗出で、汗出でれば津液漸々衰耗して死す。其の始まりや必ず肩背に凝る。凝るものは毒血なり。日を経て月を累ねるに従って履霜の漸(だんだんと大きくなること)をなし、四花患門の辺りに及ぶ。及ぶときは真血達すべき処に達せざる。故に泛濫して吐するに至る。至れば虚里の動は強く脈細数となる。脈細数となれば軽きは咳血・喀血・衂血、重きは吐血。此の如くになると真の不治なり。余は世医の如く湯液を議せず。直に肩背を按じて凝結する処を刺して血を吸わしむ。其のこれをなすこと度に多く取らず毎日取る。取ること数日なれば漸々に毒血去る。去れば真血は侵々と流暢す。流暢すれば自然に其の達すべき処に達す。達すれば旧に復す。崔氏四花患門に灸すること巧みなることは巧みなり。然れども刺して其の毒血を吸わしむるの便利に及ばず。

 前に弁論する如く、?濁の悪血、気血を疎隔するものは湯液を以て去るに難し。すべて湯液は気の循環に就いて達すべき処に達す。然るに毒血は其の気を抑塞して通利せしめざるものなれば、甚だしきものは薬力達すること能わざるは、早打肩の論を以ても知るべきなり。余は此の理を極めて、先ず血を取ることを主とし、湯液は客とす。何故なれば其の主たる処に血あればなり。其の刺すや、肩井・膏盲・四花患門の辺りに凝るものを刺し、其の他、此こに凝り、彼に痛むと云うものに刺す。若し下の少腹に在るものは委中を刺し、臍辺りに在るは必ず背骨に著れるものを刺す。刺せば凝結解散して食進む。実に血を取るの術無くんば人をして非命に死せしめん。唯世医の命と云うものは非命なるもの多し。刺して凝結の悪血を去りても死するは真に命数尽きるものなり。

 或いは難りて曰く、労?は古今難治の証とす。足下(あなた)師説を信じて容易に治するものの如くす。真に治するや否や、我敢えて是を実とせずは他説ありや如何。

 答えて曰く、先生他の不治とするの労?を治すること数人に及んで曰く、世医は是を気血不足に起こるとして補益を主とす。我はこれに反して曰く、循環して其の用をなすべきの血、?濁して其の用をなすこと十分ならず。十分ならざればいよいよ?濁す。?濁すれば必ず凝結す。凝結すれば其の証を発す。発する前には必ず肩背に凝る。其の凝るものを

我は主とす。すべて?濁の血は肩背に凝るものなり。故に労?ならざるものも肩背強急するもの多し。其の凝るもの表なれば肩背、裏なるは七・九・膏盲に多し。これを治するには直ちに刺すには如かず。刺さざれば治し難し。

 傷寒の如き其の初発には必ず項背強急す。これ外より閉じる処ありて内より発達すべき気血を壅塞すればなり。故に刺すことを主とせず発汗を主とす。其の主とする薬を与うにさえ、強く強急して悪寒する者は刺して血を取り発するの便利にしかず。然れども此の如くの証は一、二日の間に起こるものなれば、刺して与えるも、刺さずして与えるも、其の可否を議すべきなし。是其の強急平日無き所にして、風寒に感じ急卒に起こればなり。

 また刺すことの主たるものは、其の患う処を問わば数年然ると云うあり。若しくは四、五年、或いは五、六年と云う。気を労し精を竭して事をなすときは、其の強急いよいよ甚だし。また常に強急して物をなすこと能わずと云うあり。是一身を滋養すべき血の?濁して留滞するものなり。此の時葛根湯の類を以て発汗するとも其の強急を排斥するの功は薄し。刺して血を吸わしむれば暫時にして気血舒暢し、其の人云う、重荷を下すが如しと云う。  

 また疾医家と称するの徒は諺に云う、カタマリ法華(法華宗にこりかたまっているもの)の如く、肩背の毒は葛根湯の主治する所、若し与えて治せざるときは何丸散を兼用すれば治せざるの理なしと、牛刀の論をなす。すべて術は偏頗(かたよっていること)なるに宜しからず。偏頗なるは其の器の大ならざるによれり。孔夫子も博く学んで約にする(博く文献を学び、それを規律でひきしめること。『論語・子』に「博文約礼」あり)の教えあり。其の可、不可を知り、可を施し、不可を施さぬがよし。其の施し、施さぬを知るには博く学ばざればなし難し。余は彼も学び、此れも学んで、刺絡可なれば施し、不可なればなさずして湯薬を与えて宜しきに従う。

 然れども人身の理を極め、其の変なるものを推せば、血の変なるもの多し。多しと云えども真血は変をなすものに非ず、?濁するものにあり。故に其の毒血を去るを要とす。是平日精神を竭して心を術に用いるの切なるによりて其の理に通ぜり。世医は其のする所を見て理を極めてなす所以を知らず、我を目して鼬医(ここでは刺絡家に対する蔑称)と呼ぶ。其の呼ばるるや、我のみに非ず、疾医家と称するものは矢医(内科医に対する蔑称。ヤブ医者のこと)と称すれば彼また後世家と卑下し、陰陽医・神仙家者流と呼ぶ。然るときは是五十歩百歩にして無用の論なり。無用の論をなし、諺に云う、水かけ論をなさんより、疾病を治するには如何して治さんと、治すべき標的を知るにはしかず。

 ここに一病人あり。虫歯を患い其の痛み劇しく腫れて堪え難し。号泣するあり。他医これを治せんとするには含薬をなすか、湯薬を服さしむるかの二途に出でず。此の治、急卒には功を奏し難し。我が術や、歯茎の痛む処を外より按じてこれを刺す。また耳下を刺して血を吸わしむれば時を経ずして其の痛み去る。其の去るや、虫歯のみに非ず、頭痛破るが如きもの、或いは偏痛して堪え難きと云うもの、或いは肩背の強急、また早打肩と称して死に至るものも、其の処を刺せば暫時に蘇生し疼痛去る。然るときは刺絡天下第一義の術たること、弁を待たずして明白なり。すべて此の術を施し其の効用を知り、其の理を知るに、実に人身の疾病は?濁の血を去り治するもの、十に八、九なり。其の八、九の用をなすの治を措いて、他の術を主張することを得んや。

 また?濁の血や留滞して凝結するもの、肩背及び背骨を夾んでつくもの多し。肩井・膏盲・大椎の両旁・七・九・十一・十四の椎の辺りを刺して血を取れば、其の処に凝結するもののみに非ず、腹中の堅塊、血積と称するものも消散す。実に其の術を用いること多年の中には奇の奇なると驚くもの多し。また肩背に凝結するものを刺して労?を治すると云うも、他より其の理を知らざるもの聞けば無稽の言とせん。是無稽(でたらめ)とする者の無稽にして、我が無稽には非ず。

 すべて疾病の肌表に起こるものを見れば、肩背強ばりて悪寒す。是仲景氏の所謂、太陽の病為るや、脈浮、頭項強痛して悪寒す、と云うものにて表証の第一たるものなり。其の第一たる表証の目的とする所に、?濁の悪血凝結するものなれば、刺して取るは表に循環せざるの気血を循環せしむること明白なり。

 劉桂山の『医?』を見るに、風寒、風池・風府を襲って病ましむることを載せたり。また奥州南部辺り箱館の者は、冬になれば頭を綿にて包み襟巻して、髪際及び肩背の辺りを保護して、風寒に触れしめざることをなす。其のなす所以を聞けば、これ傷寒を患わざるの為なりと云う。然るときは風池・風府の辺りは肌表に疾病起きるの所在たること明白なり。其の所在に凝結するものを去らば、心気開豁すること弁を待たずに及ぼす。世医は唯疾病肌表に起きて頭項強痛の変より少陽の裏証に転じ、往来寒熱するの理を知りて、労?の初め表に起きて心気を鬱結し、後往来寒熱するの理を知らず。すべて傷寒は風寒外より閉じると云えども、其の閉じるや急卒にして軽し。軽き故に項背強ばり、また頭痛して悪寒発熱し、劇しきは身疼痛し転ずるときは胸脇苦満に変じ諸証雑出す。是其の変、急卒にして日を経ずして然り。労?はこれと其の理は等しけれども、其のなす所以のものは異なり、如何と云うに其の病因や、外より来るの風寒に非ず。内より発達して用をなすべき真血、其の機を失するによりて?濁し、運動活発の勢いを渋滞せしむるより発すればなり。故に急卒ならずして其の初めは微なり。微なるときは肩背時に強急し、時に止む。漸々として月を累ね、年を経るに従って其の血浸多し。此のとき自然に心気を塞ぐ。これ循るべき血、循りて其の用をなすこと能わずして、鬱結すればなり。

 其の鬱結や、初めは肩背に起こり、漸々と多くなるに従って七、八椎に付く。付けば必ず心気を塞ぎ往来寒熱す。其の人、朝はよく日?に悪し。医其の時循環すべきの血、循環すること能わず、鬱結して然りと云うの理に昧く、寒熱すれば柴胡剤、咳嗽すれば青龍湯の類を用うあり。或いは唐宋以来の弁論により湯液を処し、虚労不足の談をなして終いに死に至らしむ。実に悲しむべきことならずや。

 余は世間の弁論を一掃して、肩背及び膏盲の辺りに凝結するものを去るを主とす。主とするの治をなせば、日を経て月を累ねるに従って?濁するものは少なく、運動するものは多く、心胸漸々に爽快す。其の時、?香正気散に神?・麦芽・山査子を加えて用う。此の薬より見れば児戯に等しと笑うべきなれども、其の理を知らずして笑うなり。其の笑う訳は、労?の根元する所は真血に変なく、?濁の悪血、これを渋滞せしめて然らしむと云うの理に暗く、唯心気を塞ぐもの、往来寒熱するもの、若しくは咳嗽、或いは吐血・咳血・喀血するを見て其の治をなさんと湯液のみこれ議す。此の他なし。其の本を措いて其の末を計ればなり。余は基本を知りて、これをなさしむるものを駆り去る。駆り去れば末は治せずして治す。また前に挙げるの薬を用うもの、唯胃気を助けて精気を肌表に達せしむるの外他なく深妙の理あるに非ず。すべて傷寒論の論は外より起こりて内に迫りて病ましむるものを主とす。故に表に在るは表にて去り、裏に在るは裏にて去る。労?は然らず。其の起こる所は一たれども、傷寒の急卒とは等しからず。漸々にして然り、故に発汗を以て去るに難く、血を取りて去るに易し。其の易きに就いて血を取れば、活物、ものの常にして気血自然に舒暢して癒ゆ。然れども其の気もまた輔翼せずんばあるべからず。故に前挙するの方を与えて胃気を発達せしむ。若し大便秘結などあれば委中を刺して下に導き、大黄を加えて穀気を疏通す。此の如くすること、若しくは半年、或いは一年許りもなすときは癒えざることなし。若し癒えても二、三年、毎月二、三度も刺絡するときは病根悉く絶えるに至るものなり。実に肩背に凝結するの毒ほど害をなすものはなし。

 藤倉某云う医の説に、解体して見れば、肩背強急する人は肩背に?血粘着すること他より多し。またオンホウ屋(死体を焼く職業)にて人を焼くに、世に云う、のぼせ証と云うものにて死したる人は肩背より頭脳に血の凝り強く、二度焼きせざれば焼き難しと云えり。此れ我の造言には非ず。衆の知る所なり。

 先生云う、肩背より背骨に凝り強きものに多く灸すれば灸熱をなすあり。また甚だしきものは血を動かし、眼目を侵し、明を喪うに至るもあり。余絲竹空を刺して血を取り、其の危急を救うもの少なからず。然るときは益少なく害多きは灸なり。かく灸を排して刺絡を主張せば衆これを僻(かたより)とせん。然れども事実に徴して然ることを知ればなり。余此の如く縷々と事を弁ずるも済世の心切なるによれり。若し切ならずは衆に戻り、自己の主張せんやと真に先生の弁論や古今未発の論にして、此の事実に徴するに言行一致す。余深く信服して云う、先生の論やこれのみに非ず、疾病の大体によく透徹して其の理を研究し、刺絡にて十に八、九を去り、其の一、二をば湯薬を以て輔翼となす。故に其の薬方、古今弁論するものとは霄壌(天と地ほどの違い)にして他と同日の談に非ず。

 先生もまた云う、我が投ずる湯薬は貧民を救うを主とす。故に遠く異域に求めるに心なく、我が国に生じて求めやすく、売価を嫌卑を主として、服しやすからんことを期す。諺に云う、人参呑んで首縊ると云うの薬を与うことを欲せず。我が邦に生ずるの薬品を以て万病を治するの工夫をなす。其のこれをなすと云うものは他になさざる刺絡にて疾病の八、九を去り、其の一、二を治するの故なりと。故に経験の奇方の如きは実に他に比すべきなし。これは別に一書となして他日刊行せんとす。先に世間難治とするの労の治方や、其の労?となさしむるものを弁論するを見るも、其の趣は知るべきなり。

 先生銚子に住しとき、荒野村、信太清左衛門の子、清兵衛、江戸に出で、親近の許に居し労?を患う。此れにより諸医を尽くすとも治せず。已に骨立(はなはだやせおとろえていること)するに至らんとする。父これを憂い、銚子に迎えて衆医を訪れども治せず。術計つきて先生に求む。

 これ先生、湯液を主せず、刺絡して血を取るを主とするに、恐れてなり。其のこれを恐れるは、世医は云う、労?気血不足に生ずと。先生は反して血を多く取らざれば治せずと云うの説を主張したまえばなり。然れども他は治すべきと云わず、先生は治すべきと云いたまうによれり。すなわち肩井・膏肓・委中を刺して血を吸わしむ。其の吸わしむること隔日になし、二月許りを経て平愈せり。其の後二、三年も毎月二、三度、刺絡して病根絶たり。

 また江戸にては安針町、堺屋清兵衛の子、半蔵、これも前に挙げるが如くの証なり。名家と称するの治を請えども治せず。其の他、二、三の医に治を請えども不治として薬を与えることを欲せず。先生、労?の治に長じたまうことを聞き来て治を請う。これも其の刺すところは前に等しく、三月許りにして平愈せり。然しより以来、此の術を尊信し、毎月二、三度、若しくは四、五度来て刺絡す。これらは皆世医の難治とするの証なり。其の他、其の初発、若しくは半年許り経るものを治したまうは枚挙するにいとまあらず。

 また先生常に教示したまうは労?を刺して治するのみに非ず、其の他も皆其の宜しきに従うの法あり。例えば他医、血を取るは悪しと拒めば、血を取らざれば治せざることを弁じ、また病人、此の如く血を取らば精気虚耗せんと疑心生ぜば、血を取らざれば治し難しことを説き、吸い出すものは真血に非ず、?血たることを示し、もし衣服にかかるか、或いは白布に着け、日に乾かしこれを揉めば、落ちること生血とは別なる趣なり。其の他、生血は生臭く、?血は否して悪臭あり。また下疳・便毒などより取る血は悪臭強く、吸瓢に在るうちに凝結し、切るに切り難く、切るものに非ざれば截ち難きなどの区別をなして動揺の心を鎮撫することをなし、兎に角其の人を安静なさしめざれば我に託すること薄し。

 また今日は気分格別ふさぎ悪いと云うは、血を取れば其の気も開豁すると丁寧に説きて血を取るべし。然れども其の血を取るに斟酌あり。如何となればこれ進退宜しきに従うなり。機に臨み、変に応ずるの手段は、智を用いざれば成し難し。智を用うるは是術の輔翼なり。例えば一病人あり、其の人の気色を察し、其の人、気分よきと云う日は多く取り、悪しと云う日は少なく取るべし。其の多少は心中の計量に在りて、説話は常の如くし、すべてよきと云う日は気血舒暢するときなり。其の時は多く取るとも、其の取りたる後に循環速やかなり。また悪しき日は必ず転輸十分ならず、十分ならざれば取りたる後に循環速やかならずして必ず眩暈などを発す。故に其の気色を計るをよしとす。若しまた血色常に異なる日はなお少なく取るべし。医たるものは病人の行住坐臥に心をつけて見るに非ざれば、必ず急卒の変に遇うものなり。

 常州に一医あり、刺絡を善くす。其の門に入りこれを学び其の郷里に行く者あり。近村に及ぼし衆の危急を救うに、一日其の証に従いて委中を刺し、血射出して止まず。医これ毒の甚だによると云う。其の人唖然として卒倒し人事を省す。薬を与えて呼べども応せず、遂に死す。これにより囂囂(ガヤガヤとさわがしいこと)と其の事を伝えて其の術を受けるものなく、其の人もまたこれに恐怖し廃して用いず。これ病人を見ての親切ならざるによれり。若し親切に其の進退・対応、及び気色に意をつけば、かく急変のことはあるべからず。故に医は難して成しやすからず。其の難を成さんとなせば、意を留めて軽率にすることなかれ。また治の速やかなるを欲せざれ、急に治せんと多く取れば必ず変あり。故に先生は吸瓢をかけ、暫時おき、血の多少を計り、またかけ再びして止め、射出を常することなし。其のこれを成すものは絡血のよく表れて急劇のもののみなり。また先生労?にて気息短少なるものには伯州散に反鼻を倍加し丸とし用うる。精気をよく輔翼するに足りると教示せらる。

 

刺 絡 聞 見 録 巻 上   終 

 

刺 絡 聞 見 録 巻 下 

 

 三 輪 東 朔 先 生 説   門 人  伊 藤 大 助 筆 記 

 

 浅草寺の地内、久代久蔵の妻、血積を患うこと数年。これを治するに諸薬効なし。或いは勧めて云う、中橋に血積の薬あり、服すれば積聚を激動して疼痛なさしめ、黒血を下して癒ゆと。此れを聞き求めて服すれば鼓動すること甚だしく、疼痛間断なく、四肢ともに病めり。これによりて日夜号泣す。よって医を招き治をなせども治せず、終いに治を請う。

 先生先ず銀鍼にて其の腹の痛む処を刺せども治せず。是によりて云わく、刺絡して血を取るに非ざれば治することなしと。其の人の苦しむと云う処を刺す。其の刺すや、禁穴動脈の隔てなし。これによりて疼痛漸々に減少して死するものの如く応対をなさず。唯息脈通ずるのみとなれり。翌日に至り家人を呼ぶ故、蘇生すと悦び、扶け起きて粥を進む。これより次第に気力復し平癒することを得たり。

 また神田田町、岡田屋何某の妻、血積を患う。其の発するや月経通じんとするときは疼痛甚だしく、既に通じても常に其の塊より背に引き、足につりて、時々痛み行歩(歩む)。これが為に心に任せず、此の如くなること数年、衆医を尽くして治せず、先生の治を請う。

 先生、其の腹背、及び背骨の左右を診察するに、膏肓・七・九・十四の椎の辺りに凝結あり。乃ち其の毒の所在を刺して血を取ること凡そ二十余日にして黒血下る。下るときは其の堅塊疼痛甚だしく、下る物は雉肝の如きあり、紫黒なるあり、また膿の如きあり、其の臭気鼻を衝いて堪え難し。日数五六日を経るに従って漸々其の物減少する。減少するによって其の患う処も減少して三月許りにて癒えたり。

 また中橋、菊屋何某の妻、両足攣急して腰伸ばすこと能わず。若し行かんとするときは手を膝につきて行く。其の人、実に傴僂(せむし)の如し。是により腰足張り出で、常に人と等しからず。努力して立たんとするときは腹中の堅塊直に心を衝く故に、歩趨(足取り)心に任ぜず、身も廃痼とし、治せざるに甘んじて年を経て、ある人余が治を勧む。これによりて治を請う。

 余、腰眼・委中を刺して血を取る。血を取ること十余日にして堅塊鼓動し、疼痛甚だし。甚だしきときは紫黒の血、また膿の如きものを下す。下せば其の攣急もやや減少し平快に趣かんとす。他医来てこれを拒み、其の家もまた下血して堅塊疼痛するに恐怖し半途に止む。

 これ託するの厚きと薄きによりて治、不治あり。信ぜざるときは治を全うせず、全うせざれば半途に止む。止むことを云わずして、唯不治を唱う。これ人情の常なり、豈歎ずべきことに非ずや。

 浅草三間町、雛屋久米治郎と云う者、吐水を患う。其の発するや、若しくは四、五日にして大いに吐水し、其の少なきは日に二、三度、発せざることなし。其の吐するや、飲食の半なるもあり、水のみ出るもあり。此の如く十余年。膈噎・反胃、若しくは留飲の奇方、妙薬と呼ぶもの服せざることなし。是衆医手を束して治すること能わざればなり。或いは余が治を勧めて請う。

 其の腹背を見れば膏肓の辺りは凝結少なく、七、九より十四の椎に至るまで高く隆起す。按ずれば堅し。また吐出の前には其の処に痛みありて発すと云う。乃ち肩井・膏肓より下、七・九・十四の椎の凝結を刺して血を吸わしむ。凡そ二十余日を経て其の吐大いに減少す。故にいよいよ刺せんことを請う。また刺すこと二月許りにして旧疾悉く去りて心気澣濯(洗いすすぐこと)するが如く舒暢す。

 また本所根来の藩中、稲垣某の女、飲食吐出の証を患う。其の事を問わば云う、食物咽に及ばんとするときに物あり、内より拒むが如し。其の拒むの物出ると覚えるときは乃ち吐す。僅かに入るものは十の一、二のみ。此の如くなること六、七年。これも数医の手を経れども治せず。

 余に治を請う故に、其の吐するの理を考えるに、物あり、拒むと云うもの咽より未だ胃にも及ばずして吐出すると云うものは、毒上に在ること明らかなりとして、耳下を刺して血を取り、其の他、肩井・膏肓・大椎の両旁、骨に近き処を刺す。刺すこと六、七日にして飲食納まり気が舒暢す。一月余りにして旧疾平癒す。其の旧疾平癒のみに非ず、数年膝頭より股に至るの間★動(ピクピクした痙攣)す。甚だしきときは疼痛あり、其の発するや日に二、三度、若しくは四、五度。中夜に発するときは夢破れて驚覚す。刺絡によって其の疾も併せて去る。実に奇と云うべし。 

 両国橘町竹河岸、松坂屋甚助の僕、奇怪の証を患う。頭頚以上、麻子の如くの疣を発すこと無数にして、時に痒く如何ともしがたし。伝薬貼せざることなけれども治せず。来て治を請う。

 これも肩井・膏肓を刺す。刺すこと凡そ一月余りにして其の疣枯槁して脱落す。此の治を聞いて、新吉原五十間道、松本屋六兵衛の子、頭中に甚助が僕の如き疣を発す。これも同じく肩井・膏肓を刺すこと十余日にして悉く散落す。

 常州府中の藩中、皆藤何某、健忘を患う。君の応対、他の接見、及び常の談話も首尾全うからず。後は癡(ばかな者)なるが如く愚かなるが如し。諸医治すれども治せず。余肩井・膏肓を刺し、二月半許りにして癒えたり。

 瘧疾を患い、截薬(瘧疾を治療する薬。常山、草果など)を服すれども忘れず、数十発に及ぶものは委中を刺して可なり。また腹中に塊を生じ、瘧母と称するものとなるには、肩井・膏肓と委中とを刺すこと七、八日、若しくは十余日に及ぶときは塊消し、荏苒たるものも自然に解す。南涯先生云う、瘧母となるものは桂枝茯苓丸に宜しと示さる。

 先生に問う、下利雷鳴(腹がゴロゴロ鳴って下痢するもの)するものも刺すべきや否や。

 曰く、肩井・膏肓刺せば気の鬱結を開くなり。委中を刺すは下に循環せざるの気を循らす。此の如くなれば昇降其の所を得れば湯薬も其の応をなすもまた速やかなりと云う。

 婦人乳汁多き者、少なしに至るあり。これも肩井・膏肓を刺せば鬱気開豁して旧の如く出づ。少なき者も天稟に出づと云うとも、これまた刺せば刺さざるに勝れることあり。すべて乳の少なきは気血の鬱血によればなり。

 瘰癧・便毒の類、凝結の始めは其の所を一、三、若しくは四、五ヵ処刺して血を吸わしめよ。已に膿潰するものは其の瘡口を回りて取り、吸膏薬(吸い出し膏のこと)を貼せよ。口已に収まりても其の処を按じ、凝結消散するまで取らざれば癒えずして再発す。

 頭痛・頭瘡・婦人のぼせ証と称して頭中癢くフケ多しと云う者、縛緊(この場合は鉢巻のこと)にて耳上より枕骨(枕のあたる部分の骨。または少陽胆経の頭竅陰穴の別名)にかけ、前の髪際に回しかけて締め、按じて痛むもの、其の他患う処、前頂後頂の所在に従いて刺して血を出さしむるときは、旧年癒えざるもの癒え、或いは常に眩暈すると云うものも去るあり。此の他なし。?濁の毒血去りて阻隔障害するものなければなり。

 痛風・鶴膝風の類、若しくは骨節(関節部)、或いは踝骨(足関節部)の機関自在ならず、疼痛強く、行歩艱難なるの証は痛む処を按じ、凝る処を去るべし。若し痛み足らざるもの(それほど痛まないこと)は手足ともに縛緊にてしめ、絡血現るものを刺せば血射出して癒ゆ。絡血の現るや、刺さんとする処は菽麦(豆の総称)の如く青黒に節立つ(盛り上がるさま)ものなり。また踝骨の後、凹なる処を刺すもよし。

 すべて鶴膝風の類、已に機関に凝結して痛み止むものは治するに難し。早く計るの善にはしかず。

 若しまたこれを治せんとするには麻沸湯を与えて其の人を昏冒せしめ、肉を割り、骨節に凝結するの毒を削り去り、金瘡の治をなさば治すべきなり。然れども此の治は我はなすべけれども、人に託して受けるものなし。時に至っては此の治も施すに難しからん。先ず刺絡の術を広め、血を見て恐怖せざることを試して、而して後に施さば難しかるまじ。其の他、此の如くなる治をなさざれば、沈痾痼疾は治し難し。時を待つにはしかず。

 鼠毒・犬毒・蝮蛇の毒は、其の傷口を刺して血を多く取り、潅水して其の身振慄するに至らしめよ。犬毒には杏仁をすりつぶして伝えれば、四、五日、若しくは七、八日にて赤小豆を食するとも其の毒発することなし。

 また世に赤小豆の類を食して発するあらば、其の傷口を刺して血を多く取り、また尺沢・委中を深く刺して血を取れ。血を取るに勝るなし。実に必死の証なり。若し血を取ること少なければ死す。多く取りて死するか、取らずして死するかに途に出ず。唯束手して死を待たんより刺して死せんと。多く取らば救うべきなり。刺さんとせば縛緊にてしめてなすべし。また鼠性を存して焼き(イタチの黒焼き)、辰砂と四分六分に合して用いてよし。

 喉痺は危急の証にて、篤劇なるは飲食通ぜず。これを治すは肩背を按じて凝るものを刺し、其の他、耳下、また喉骨の左右に凝る所あればこれを刺す。甚だしきは大椎の両旁を刺せば癒ゆ。これのみに非ず、口熱・虫歯・走馬疳・舌疽の類も外より按じて、其の痛み撤する処を刺し、また肩背・大椎の両旁を刺せば必ず癒ゆ。

 神田豊嶋町、傘屋某の妻、痔漏を患い、治せざること数年。後は其の漏穴潰乱甚だしく、前陰後陰の阻隔なく、小便肛門より淋瀝、また漏穴より大便通ず。これによって必死とし、其の斃を待つ。或いは余が治を勧む。迎えて治を請う。

 即ち委中を刺し潰乱する処を廻りて刺して血を取ること、凡そ三月許りにして我云う、造化の妙や実に奇なり。人工及ぶべきに非ず(自然治癒力というものは非常に不思議なものだという意)、医たる者、造化の妙を知らず、薬を以て補益すると思うは誤りなり。唯これを抑塞して循環せしめざるの毒血を去ることをすべし。毒去れば人工をからず天造の妙は自然に作る。此の理を知らざれば?濁の悪血を去るを見ても真血の虚耗不足とす。これ研究討論の至らざる所以なり。故に迷惑して終身医事に疎く、空しく紙上の談論に日を消するのみなり。

 新吉原江戸町河岸の娼家、湊屋吉兵衛の妻、頭痛を患い、発するときは疼痛堪え難く、席を安ずること能わず、号泣四隣を動かす故に其の日は客を辞す。其の夫、及び親近の者、これを見るに忍ばず、唯死を待つのみ。かくすること数年にて、其の証、月に二、三発す。諸医其の知る所を尽くせども治せず故に治を請う。これによって縛緊にてしめ、頭上を刺すこと韮葉鍼にて百箇所許り。黒血脈々として流出すること、凡そ一升余りなり。薬を与えて気を輔く。其の人暫時ありて云う、痛み去りて一掃するが如しと。其の後再発することなし。

 此れを以て古昔を思うに、華佗、曹操が頭風を刺したるを范史(南朝宋、范曄の作った『後漢書』のこと)に載せたるを見れども、其の奇功を奏するを比せば譲るべからず。実に奇なり妙なるは刺絡の術なり。自ずから施し、自ずから驚き神の如しとす。若し前証の如く、湯薬を以て治せんとせば治すること能わじ。魏は海内の三分二を保つとも、此の術を措いては治することなし。然れば天下第一術とすべきに論なし。

 疥癬を患う者、薬湯に浴すれば内攻して腫満し、喘急息迫の証となる。若し浴せんとならば、浴後尺沢・委中を刺して可なり、内攻の患いなし。また沐浴せざるものも、これを刺し血を去れば漸々に退散す。また鵞掌風に苦しむもの、数年にて百方効無きに、これも尺沢・委中を刺すこと数次なれば癒ゆ。

 風眼痛み強く堪え難き者は尺沢にて血を取ること多からざれば明を喪う。其の他、絲竹空、及び肩井・膏肓・大椎両旁を刺すべし。其の他諸般の眼疾・赤眼・爛目・病目・外障の類も唯、尺沢を除き前挙の処を刺せば癒ゆ。

 医、乳癌は治せざるものとす。先生の説によれば諸般の腫物、皆毒血腐敗して潰乱するものなりと。然るときは其の理に二つなし。瀉血治すべきや否や。

 先生曰く、乳癌を刺すも、他を刺すも其の理は一なり。然れども乳は婦人緊要たる処、他に比すれば肉生じ難く癒え難し。これによりて往古より乳癌を難治の証とす。

 余は已に発して潰乱するものは如何せん。已に発せんとするものには先ず崖椒(山椒)七分、天南星三分の割合にて細末し、水にて塗るときは、これが為に抑塞せられて他所に発するか、或いは少なし。其の処を避けて発す。余は其の他に発する処を刺して血を吸わしむ。故に毒血、其の口より吸い出されて潰乱に及ばずして消散す。若し早く計らず日を経さしむるときは、先になる悪血と後になる悪血と共に腐敗して膿潰す。医これを見て其の潰乱する処、皆腐敗して然ると思うは惑いなり。其の始めに鍼を刺し、毒血を吸わしむるときは腐敗せんとするの勢いを挫く。挫けば真血は其の機に乗りて毒血を排出して、進々は毒血少なくなるの理なり。医此の理を知らず、膏を貼して膿潰を待つ。若し待てば毒血は勢い強く、真血は抑塞せられて舒暢せず、此の理に通じて其の処を刺して血を取るの勝れるか、膏薬にて吸わしむるの勝れるかを参考すべし。膏の吸瓢に及ばざること同日の談に非ず。

 若しまた既に潰乱するものは前挙する論の如く、其の瘡口を回り、鍼を刺して血を吸わしめよ。吸わしめて後に膏薬を貼するときは、先に腐敗するものはこれにて吸われ、後にならんとするものは瓢の為に吸われる。故に他の治より早く毒血強くなり、若し日を経るものは肩井・膏肓、及び背の乳の当り、委中をも兼ね刺してよし。

 すべて此の理に通ずれば癰・疔・種々の腫物も、其の発する処と其の形状と、深浅軽重によりて殊異はあれども其の根原の所は一?濁の血より外なし。

 また潰乱の大小は毒血の多少による。医たるもの此の理を究めず、古人瑣細に区別するの弁論に拘束するときは湯薬のみ議するようになり、すべて湯薬を主として議論するものは必ず膏薬を貼す。我する所は先ず膿潰せんとするものを取るを要とす。故に湯薬をば主とせず、また主とせざると云うたりとて、これを捨てるには非ず。毒血去れる後に真血を循環せしめんとするの神気を輔翼するの為になすのみ。然れども先ず其の主たる所は?濁の悪血に在りと云うことを会得してなす。故に湯薬のことをば主として議することはせざるなり。

 すべての腫物を治せんとせば、名に拘ることなかれ、唯悪血の多少を計り、其の位の浅深を知るを要とす。其の要を知るは、血を取るの量を知る。多きを少なく取らず、少なきを多くせず、其の度に応ずるの工夫第一なり。

 先に論ずる乳癌の如きもの、其の発する処に抑圧の薬を塗り、他に発出せしむると云うは奇怪に似たりと云うも、これ?濁の悪血は死血にして、真の活血と殊異なる理を会得せぬ故なり。

 例えば腕や股を縛りて尺沢・委中を刺せば、其の処に無き悪血吸われて出づるあり、射出するあり。これ循環して用をなすこと能わざるの血なり。其の用をなさざる悪血にして発出せんとするものを薬を以て抑塞すれば活血、悪血を動かして他に移すなり。其の移すものを鍼して吸わしむれば速やかに去るなり。例えば血は水の如く、悪血は已に其の性を失いしたるものにして、水に浮かぶ物の如し。鍼にて刺され吸われるときは、吸うに従って至る。生物は至らず。若し生血出るものならば、委中・尺沢を刺して多きときは一、二合に至るあり。然るときは其の処陥欠せん。陥欠せざるときは一身にあるの?濁の悪血鳩集(多くのものが一所に集まること)して出ること明し。

 此の理を以て我は抑塞の薬を塗り、外に移すか、或いは其の旁に発せしめす。発する処は刺して血を取りて治す。医たるもの乳癌によらず諸般の腫物、其の発する処悪しきは此の薬にて他に移せよ。若し移し難き勢いとならば直に其の上を刺して腐乱の毒血を取り、潰乱に至らしめざることを欲するなり。医たるもの意を留めてこれを識得せよ。

 癲癇は世俗これを宿業のなす所とし、不治のものとす。先生これをも治することあるや。

 曰く、治することは治す。然れども一朝一夕に治するものには非ず。若し治せんとならば委中、及び七、九の背骨の近きに凝結するものを刺し、兼ねて股の付け根の動脈を夾み、両傍を刺して血を取るときは一年許りにして癒ゆ。然れども病人も倦労して、医もまた其の治験の速かならざることを知りなさぬものなり。若し治せんとせば丁寧に其の理を説き聞かめして、湯液にては難治の趣を示して治をなすべきなり。実に此の病や、父母の遺毒の凝結して発するものなれば湯液の及ぶ所に非ず。世に奇方・妙薬と呼ぶものあれども、多く治することはなきなり。其の難治の証を治するものは刺絡の術を措いて天下議すべきものはなきと知るべきなり。

 問いて曰く、俗に長血・白血と称するの病、我が姉苦しむこと数年。薬を服して治するやと思わばまた発す。其の身も年月を重ねし故に不治の証とす。また証に随いて薬を処せんとすれども、苦きや甘きを悪みて服せず。医は近里を尽くせり。此の如くの証は如何して治せんや。

 先生曰く、臍と等しき背骨を夾んで刺し、また腰眼を刺し、血を吸わしむること日を経れば必ず癒ゆ。我其の兼ねるに一方あり。款冬花は生、麻の木は黒焼き、各十戔、犀角一戔を細末として服さしむ。若し犀角、其の売価を苦にして貧民服すること能わざれば益なきに似たり。故に我、これに代えるに紀州より出る、黄牛の生角と呼ぶものを三戔末とし用いて犀角の功と等しきことを覚う。医たるもの、医事に心を竭し、貧民を救うべき工夫肝要たり。

 また問う。下疳瘡も刺すべきや否や。

 曰く、刺して可なり。若し陰茎に発せば其の本を縛り、亀頭をば刺すことなく、其の下を刺せば上なるものも癒ゆ。若し刺しても其の処腫れるはまた刺すべし。毒尽きれば口収まり腫れ平なり。また上攻するものや、頭に在るは頭に刺し、発する処を以て目的とす。 若しまた鼻梁欠けんとするには、其の始めなるは耳の下五分許りを置いて刺し、已に甚だしきは鼻を少し離れて両顴骨の内側を刺せば毒尽きて平癒す。医たるもの毒の所在に従って刺すこと、これを以て会得せよ。此れに就いて説話あり。

 先生、新吉原姿海老屋の僕、佐助の★瘡を治す。此の者、艱難を経尽くして少儲(少しばかりの金)ありしも、其の為に?竭(使い果すこと)す。或いは先生の治を勧む。これによりて、至りて云う、先生は刺絡を以てよく★毒を治すと。我已に湯薬、丸散は服して益なきを知る。請う、刺絡にて治するあらば治を請わん。若し湯薬を服するの治は辞する所と云う故に、其の意に任せてこれを許し、刺すこと隔日にして、凡そ七十余日にして治す。其の治施すや他なし。

 発して痛む処、凝結するもの、膿水出るもの、或いは直に刺し、或いは環りて刺し、また刺し難き処は、其の旁を刺して毒血を呼び吸わしむ。すべて刺す処は毒の所在に従う。其の始めて至るや、面暗黒にして身体も同じ。其の平癒に及びては旧色に復帰して歩趨もまた壮健なり。先生常に毒の所在に従って刺すことを説く。然れども其の刺す処は肩背手足のみに多く、顔面これに次いで、腹に刺したまうことを見ず。此の義を質問すれば曰く、刺すことなきには非ず。病人これを拒めばなり。

 我が門の田中安忠なる者、其の妻積聚を患う。心下を衝く物あり。其の物を按じて刺し、血を吸わしむれば衝く物消散すと。これ我が教える所を聞いて知れども、未だ他人に施さず、其の妻の疾苦に逢いてこれを試す。他人に施さんとして、なせしよし語れり。すべて霍乱の類にて腹痛強く、処を定めてなすものは、其の按じて刺して血を取れば緩むものなり。心胸に差し込み強くは、期門を刺して可なり。

 凡そ事前に定まること知れども、しばしば其の事に逢わざれば必ず半疑の心を生ず。其の生ずるや、其の事をなす者(医者)に生ずれば、病家はもとより無知の俗なれば、其の擾乱は甚だし。其の甚だに至るものは、見るべからざるの血を見るの術たればなり。

是によりて親近は諌めて云う、医たとえ治すると云うと云えども、彼、利の為になすの業たり。危急に至りて命と云わんに悔いるとも益なし。また血は一身を滋養するの物なり。若し彼が説の如く、?濁の血を去ると云うの説を建てども信ずるに足らず。先哲、其の説を専唱するもの少なく、また其の業をなす者少なし。たとえあるとも衆医に比すれば、九牛の一毛に等し。其の等しく少なきの業をなす医に生命を託すべけんや。若し彼に命を任せ、十分に血を取らせば、精液枯竭し、肌膚の滋潤消散せん。請う、其の治を止め、他に請うにはしかずと云う。

 医もまた其の事に熟せざる故、其の機に応ずるの説話をなし、擾乱迷惑するものを導き、生路に趣かしむること能わず。彼が否むを鎮撫して、其の術を受けさする器なき故に、其の好まざるを強いてなすこと能わず。其の好みに応じて、治すべきの疾病を治すること能わざるなり。其の治すること能わざるには論なけれども、術の為には甚だ不忠なり。不忠なる訳は、天下第一義の術を空しく湮滅(うずもれなくなってしまう)せしむるの端たればなり。

 先生、此こに歎きありて云う、余数年経験するものを汝に示さん。記して其の事を熟知せざるものに知らしめば、たとえ事実に遭うとも、其の例する所によらば半疑の心生ずることなく、危急に臨むとも心神転倒錯乱せざらん。先ず病家の擾乱するの状を挙げて示さんと。余云う、其の擾乱するの一つ、我其の人に親しく聞けり故これを記す。

 小網町加田屋の僕、久兵衛は我が国飯山の人なり。八月の初めに足重く、歩趨艱難、これによりて三里に灸す。灸すれども熱を覚えず。是によりて世に所謂ヨイヨイと云うの病にやならんと心気を労せり。

 時に銚子の七右衛門来て止宿せしが云う、足の重きは三輪氏に至り、放血するときは治す、急に往きて治を請えと云う。また其の人の請う人両国にあり、其の許に至り其の事を計れば云う、女は血多く、男は少なしと、其の少なしを取るの術をなす人に治を請うは我不可とする所なりと云う。

 これによりて半疑の心を生ず。浅草御見附の外に出でしが俄然として翻転(ひっくりかえる)して思惟(深く考える)すらく、我先に仕えし家に来る医、危急に臨んで起死の功ありしを見たり。此れに託し、彼を変えんと道を回し、其の医の許に至り病名を聞けば脚気と云う。薬を請いて服するに寸効なし。故に安静ならずして思惟す。いかんせば治せんと衆に語れば、各其の言一ならず、一途に帰することなし。

 これによりて神明仏陀に計るにしかずと決し、中橋に甲州新善光寺来たり在す。灯篭仏と云うあり、其の仏に祈願し病の治不治、医薬・湯治の吉凶を問えば神の如しと云う。詣で其の可否を問う時は湯治に宜しと。即ち塩風呂に沐すること六、七日。これも寸効なく、疾病は日に甚だし。

 平安の千切屋、清七と云う商人あり、此の人向うに先生の治を得て脚気を治せるが勧めて云う、若し治せんと欲せば心を決して治を請えと云う。故に舟にて浅草に至り治を請う。帰る其の夜、足頗る強急して屈伸心に任せず、按摩を呼び導引して臥す。翌朝清七いかんと問う。故に其の苦状を述ぶ。

 其の人(清七)云う、始めより疑念あれば終わらずして止む。其の止むや半途にせんより今日他(の医者)に転ぜよ。若し先生に治を請わんとならば死生彼に任せよと。其の言甚だ懇到(親切な気持ちがよく行き届くこと)。これに感じて通うこと十五、六日。此の時、心神安静には似たれども、他は顔色憔悴すと云う。

 是によりてまた疑念生ず。或いは云う、深川に脚気を治すると云う人あり、神の如しと。これを聞いて其の許に至り、其のする所を見れば、口に仏教を唱えて、鍼にて委中を刺す。其の刺すの術、彼と比量すれば、其のする所は少なく異なれども、血を取るに至っては一なりと。また復意を転じて浅草に至り血を吸わしむ。吸わしむること二十余日に及んで歩趨するに、足稍軽し。二十八、九日に及んで旧の如し。

 実に先生の術を受けるに、我が(久兵衛)心の顛倒錯乱此の如くなり。我が此の如くなれば人もまた此の如くす。先には両国にて諌めし人も我が治したるを見て云う、我の親しき人に汝と同一病なるあり。これらも勧めて浅草に至らしめんと云う。是事に慣れると慣れざるによれりと其の始終を語る。

 先生に此の事をまた語れば云う、天下の人皆久兵衛の心の如し。凡そ五百人の治をなす中に、終わりまで変せざる者は百人にて、或る日を経るに倦む。また他医の拒みにひかれ血を見て恐怖し、親近の諌めに止む。実に人情の転変、これを見て其の大旨の存する所を知るべきなり。然れども千万人の中には生命を我に託する者あり。

 銚子に土屋彌兵衛と云う人あり。眼疾にて其の始め、信の諏方に至り治を請えども治せず。また尾州馬嶋の治を請う。これも治することを得ず。帰って上総のふだに至り治すれども、これまた治せず。余が眼療をなすことを聞きて云う、我が眼病、名家と称するの治を請えども各治すること能わず。先生これを治せんや否や、と云う。余其の眼を見るに痛みなく、唯物を見ること能わず。また赤筋もなし。

 其の人云う、左眼火を見れば赤く、右眼は昼夜分かることなし、と云う。余も云う、未だ此の如きの証を治せしなし。然れども若し強いて請わば、我が法とするの法を以て治せんに不可あらじ。其の人また云う、我天下名家の治を請いたれども、治せざれば治せざるには悔いなし。先生もまた法によって治して治するに意なかれ。為さざれば、なるかならざるを知らず。我また治せざるの眼病として治するや否やを万一に期せんと云う。

 故に肩井・膏肓・絲竹空を刺す。刺すこと二十余日にして頭面に小瘡を発す。発すれば頭上は縛緊にて絞めて取り、面部は直に刺して取る。取ること十余日にして小瘡も稍減少し、平生の頭痛忘るるが如しと。

 一日其の人云う、我思う、眼は治することを得んかと。其の故を問わば云う、火を見れば其の色、旧より一等赤く、昼は白と云う。また刺すこと十五、六日を経るに従って漸々白色多く、其の物は弁せざれども人の立つや、物の遮りに遭えば黒と云う。我も此れを悦ぶ。其の人はなおさら悦喜す。いよいよ進んで治をなし、治を受ける日を経ること半月許りにして云う、小なるものは弁せざれども、大なるもの、粲然(あざやかではっきりしている)としたる物は視るに足りると云う。

 其の後稍一月許り過ぎて松葉十本懐にして来たりたるが、出して云う、これを見るに始めは物あるが如し。この頃は分けて見れば薄く見ゆ、と云う。いよいよ此の言を聞いて刺さんことを欲すれば、其の人もまた受けんとす。受けるに従って薄きもの、濃くなり、漸々に其の数わかり、其の物弁ず。半年許りを経て旧の如し。

 其の人、誠に手の舞う、足の踏み処を知らずと悦んで云う、実に我、明夷の晋に変せしは(易の気が変わること。ここでは病気が治癒したことをいう)刺絡の術に非ずんばなし難しと衆に語る。

 また其の妻、年久しく肩背強急すること甚だし。其の人、裁縫を善くすれども、其の病患あるによりてなすこと能わず。先に我が治を受けしより信ぜしことなれば、治を疑うことなく血を取る。始めは肩背漸々に緩慢すと云う。余また然らずんばあるべからず、と努めて取り、努めて取らず。日を経て月を累ねるに従って其の患う処は去りしが、顔色精彩を失し、紅潤日々に去り、腰に力なく、足踏む処につかず。是によりて其の夫も、其の身も疑念生じて云う、病の治するを悦び、血を取ること過多にして、かく精神も昏冒するに至るやと云う。これによりて親近の者は勿論、合壁隣巷もこれを伝えて頗る囂々たり。

 余此の時半疑の心を生じて思う、其の取るべきを取りたれども、また其の度を過ごせしによるやと思惟す。其の夫は云う、我は先生の治によりて治す。妻もまた其の患う処は治することは治せしと云えども、此の如くの症を惹き出せり。故に刺すことを請け止めんと云う。余も強いて勧めず。日を経ること十余日に気力帰復して旧の如く。強急もまた発せず、其の前後に挙げる、姿海老屋の僕、佐助を療ずるに、彌兵衛が妻の如く顔色痿黄し、唇下淡白なり。我が妻、是によりて云う、血を取ること過多によりて然るか知るべからず、暫らく緩く取るか、また休せんにはしかずと諌めて我に云う。先には初めてかかる証に遭いたる故に疑心生じて心神も顛倒錯乱せり。然れども日を経れば旧の如きを見て発明せり。

 凡そ薬を服さしめて其の功を奏ずるに至れば、或いは吐瀉、また戦汗するあり。故に東洞吉益氏は、薬瞑眩せざれば其の病?ずと古言を主張せり。すべて毒尽きて精気復帰せんとするときは薬を服するものなれば、振寒して汗出あり、吐下するあり、前に徴して其の理を究むるにしかする所以の理を極めたり。恐怖すべき所に非ずと、努めて血を取る。十五、六日を経るに従って食漸々に進み、精気もまた漸々に充足して平日の如し。

 其の後我が許に来る按摩に太仲と云う、其の人語る、我平日出入りする待乳山某寺に某僧に聞きしことあり、草加の辺りに一病人あり、口瘡を患い、歯茎宣露し膿血浸々として出で、これにより数医の治を請えども治せず。此の為其の蓄積空虚し、家具を売り其の治をなす。然れども寸効なし。年を経ること二十余年、近里に他邦より来たり住する医、血を取り難病を治すと聞き、其の居を訪れ、其の患うこと数年なる趣を語り治を請う。其の医云う、これを治せんとするには数月を経ざれば治し難し。足下これが為に資財田産頗る尽くせりと。然らば我が利の為にするの心を止め、其の放血する処と其の術とを教えんと、其の妻を招いてこれを教える。

 病人悦んで家に帰り、教えの如くするに、二、三月を経たり。経るに従って漸々に膿血減少す。是によりていよいよ進んで血を取る。血を取ること一年許りにして顔色憔悴し、四肢羸痩す。然れども其の患う処は去れり。此の時に至り貧窮骨に透る。親族これを議し、雑費を助け、其の頃名手と呼ばれし何某の治を請わんと江戸に出で、寓居を求め其の治を請う。

 其の医云う、此の病は脱証にして治し難し。治をなすも死す、なさざるも死す。無益の治をなさんより帰りて死を待つにはしからずと。是によりて如何ともしがく帰らんとす。其の人、其の昔江戸に在しとき知己の僧あり。某寺の住持たりしが隠居して待乳山某寺の地内に住せり。死せんとするの決断を聞き、永劫逢いがたき人なり。逢って昔を語り、帰るにはしかず、と其の居を訪れ終始を語る。

 僧云う、治は益なし、必死と断ぜられなば死もまた近からん。気色を臨めば実に死も近きと覚う。其の身富有にも非ず、親族の資によらば万事不自由ならん。妻も起居の介抱一人にては難しからん。其の難しに帰らんより我が許に在りて死せよ。若し危急あらば妻を呼ぶに難しからんと、其の寺に寓せり、と語る。

 我其の語の終わらざるに声を激して云う、名手と呼ぶの医も血を取り、語るが如き証に逢いしことなし。故に其の決断を誤る。其の病人死するものに非ず、必ず平癒せん、と云う。太仲云う、実に先生の判断の如く半月も経ざるに食進み、一月許りにて旧日の如く二十年来の疾苦遺忘(忘れる)するが如しと。信に先生判断如く、此の傑然たる卓越の見、しばしば其の事に逢わずして如何して然らん。医たるもの、其の身、其の事に熟せざるとも此の例を以てかかる証あるとも恐怖することなく、努めてなさんことをこいねがうの為になすものなり。

 また云う、動脈・禁穴に鍼を下すことは世医の恐るる所なり。其の恐るる所を恐れざる

ものは異人とともに其の事を研究して然るなり。其の理には通じたれども、其の事になれずして恐怖の心生ぜしことあり。其の心の生ずるや、我には非ざれども病家の親族、近隣、不可とするものを強いてなし、若し治せざるときは、一つは彼らが誹謗に逢わんとし、一つは若し天命尽きるものに遭うなば我が拙を唱えられんと思えばなり。故に其の言に従う心生ず。これ其の事に慣れざるによれり。この故に古昔戦場に出るものや、白刃を犯し矢鋒を恐れずして場数を踏みたる勇士の言を聞くことを好むこと、軍談の書に往往載せり。故に余も其の事に倣って己れが恐怖を生ぜしや、しばしば其の事に逢い、熟して後は生ぜざるに至ることを述べんとのたまいて曰く、我銚子に在しとき、柳屋仁平次の僕、太兵衛は醤油蔵の支配人たり。此の者、腕骨と手との機関(関節のこと。この病症は腱鞘炎を指している)疼痛して、其の勤めるべき所を勤めること能わず、余に治せんことを請う。乃ち放血二十余日にして治したり。是によりてまた其の勤めるべき所を勤めること一日、其の夜疼痛再発し母指より動脈に至る。前日に比すれば最も劇し故、また放血して治せんとす。仁平次諌めて曰く、寸口の動脈は医、疾病の表裏内外の所在を弁じ、寒熱虚実を別かち、浮沈遅数を診ずる処なれば、気血の道路の最も緊要たる処たり。其の緊要たる処を刺して血を取るは、我に於いては不可とする所なりと云う。また其の親近の者も云う、先年水戸城下にて喧嘩の時、動脈の所に疵を受けし人有り。血こんこんと出て止まらず遂に死せり。然るときは動脈の禁穴たるは論なき所なり。彼、是に反し毒の所在を刺すと云う。若し刺して血出て止まらざるときは悔いても及ばず。太兵衛来たり其の事を語る。我云う、刺して一失なしと云う。帰って其の治を請うことを語る。

 主人の曰く、汝を諌めても汝を思うの切なればなり。汝其の切なる意に戻り治を請わんと云うも、汝が身にして我が身に非ず。汝其の身を捨て彼を信ず。信ずるの厚くして其の身を捨てんとするには諌めるも無益なり。汝が心に任するの外他なし。汝が身にして汝が心に任す。これ天なりと云う。

 其の言切なれども可とせずして来たり治を請う。我が心に決断す。先に異人と切瑳して禁穴・動脈忌み嫌うことなし。然れども其の後動脈を刺すは、此の人を以て始めとす。若し刺して死に至るは此の術廃れん端なり(もとなり。端緒に同じ)。若し廃るば我が廃するに非ず、天の廃する所なりと。人の不可とする所を可として施さんと決断して刺す。刺せば其の痛み稍減ずと云う。翌日また刺し、刺すこと六、七日にして次第に減少し、十余日にして苦しむ所なし。これよりいよいよ心に動脈・禁穴忌み憚ることなきを徹底せり。其の後此の地に来たり。刺絡して専ら其の事を唱えり。

 常州府中の藩中、山口何某の女、土浦の藩中に嫁したりしが、疾病養生の為に父の許に在り、其の証、初め肩背より疼痛起こり、漸々に波及して手甲に及べり。我に学べし府中の侍医手塚良仙、これを刺絡して治す。数日を経て他所は治すると云えども、動脈の辺りに凝って其の疼痛刺すが如し。良仙これを刺さんとすれば他医不可と拒む。其の父もまた刺すことは不可とす。故に来たりて、強いて刺しても治するや否やを問う。我語るに、前に挙げる所を示して曰く、毒在りて刺すはこれ毒の所在に従うなり。何忌み憚ることあらんや。たとえ他医拒めどもこれに屈せず、刺してこれを治し、彼の拒むの徒の目を驚かせよと。此の言を聞いて云う、先生の教示なくんば平日と言行背馳す。実に千金の賜より勝れりと意気揚々として帰り、大言して病家を屈服せしめ、他医を排斥して刺す。刺すこと十余日にして其の疼痛失するが如し。此の以往(今後)此の如くの証に逢えば、学者眩惑せずして刺して可なり。若し猶予(ためらうこと)して刺さざるときは其の術拙し。拙きのみ非ず道の害なり。

 先生云う、刺絡の術は天下第一義の術たること、四十余年の星霜をなし来たりて知る故、我これを主張して建言し、万病唯一血と唱え、朝夕にこれを取り、其の事に熟して、血あることを知りて疾病の形状に応じ、証に随いて薬を投ずと云うことを主とせず。何故ならば実に刺して取るべきの血は湯液及ばざるもの多し。唯此の時に至りては血を取るの他なし。薬は無用の長物たるが如くなり。若し此の如くの言をなさば、奇を好み、異に趨るとせんが、さに非ず。証に随いて薬を与うと云うは、変の常なり。変の変なるものに至れば、湯液これを治すること能わず。其の変の変なるものは、変の常なるものに比すれば頗る奇怪の証となる。

 小河町、某侯の家来の妻、奇疾を患う。其の証を聞くに云う、初め風池・風府の辺り、倏忽(たちまちに)として悪寒す。この時毛竪皮粟(鳥肌の立つ状態)す。然しより頭脳中に響き、応あることを覚えて禽獣の吠鳴(犬の鳴き声)、激撃撲折(太鼓を打つような激しい音)の音もこれに響き、また転輸の車夫、努力して万精するの声も応じ、イイウウと呼ぶ時は頭脳中にもイイウウと呼ぶが如く、其の節に応じて其の身体も車の近づくに従いて覚えずして動揺し、遠きに従って止む。此の如くによって心気暫らくも安静することなく、食は常の如し。是により衆医の治を尽くし、また神仏に祈誓し、符呪の簡札を受けて平癒を願うとも寸効なく、其の間下剤はもとより、若しくは吐し、若しくは発汗し、また薬を鼻に吹かれ、或いは嗅ぎ薬と諸般の治をなせども応ぜず。これにより奇と云う、妙と云うの薬を求めて服すれども治せず。

 数年を経て余に治を請う。誠に未だ聞かざるの奇病、見ざるの怪証、古昔応声虫あることを聞きたれども、かれは腹中、これは頭脳。其の所在と病状とは霄壌(天と地ほどの違い)なり。然れども思惟すらく、凡そ身中に在りて今日の用をなすものは気と血と二つのみ。気には形なく血に形あり。形あるもの、若しくは渋滞し、若しくは凝結す。凝結し留滞するときは形なきの気をして循環せさらしむ。其の義を以て此の理を推すに、諸の響応(声の響き)必ず頭脳中に留滞凝結するの毒、血を鼓動すること明白なり。然るに他医これを去るの治をなさずして他の治をなす故、治すること能わず。余は直に響応すると云う処を聞き、其の処を刺さば癒えざるの理なし。其のこれをなすには刺絡に非ざれば治することなしと云う。

 病人これを聞いて曰く、凡そ此の奇病を治せんとして湯薬・鍼灸なさざることなし。然れども治せざれば、これ術計尽きると云うものなり。唯身を先生に任せて如何とも其のする所をなして治すべきあらば治せよと云う。

 是によりて頭は縛緊にてしめ、これを按じ、其の響応するの劇しきと云う処を刺し、また肩背は大椎の両旁・肩井・膏盲・委中を刺す。此の如くなること数日にして其の患い稍減少す。薬は甘麦大棗加黄連湯を与えること一月余りにして、響応なすときあり、なさぬあり、然れども全く去らず。

 我此れによりて思惟すらく、婦人は物に拘束して心気安静ならざるものなり。これを鎮墜するには禅家の観法にしかずと其の事を語る。其の婦人云う、我禅宗にして観法(物事の道理を心の奥深くで考えること)に志あれども良縁なくして止む、また先生導師となりて病のみに非ず、心気をも安静ならしめよと云う故、公案(禅宗で、修行者の心を練り鍛えるために考えさせる問題。禅問答の問題のこと)を授けて巧夫(工夫)なさしむ。

 半月許りにして云う、我響応を以て松風波浪の声となせば、心神安静にして、これに擾乱(乱れ騒ぐ)せらるることなし。擾乱せられざれば患にして患に非ずと其の言已に超乗せり(患をのりこえたこと)。此の如く観法の徳によりて半年許りにして旧疾濯滌(洗い清める)するが如くにして五蘊皆空(煩悩を起こすもとである色(肉体)、受(感覚)、行(心の働き)、識(意識)の五要素がすべて空になり、煩悩がなくなること)の理に通ぜり。すべて?濁の悪血の変をなすや前証の如きは他の音声と応をなす。其の応をなすや天地の寒暑・雨雪・草木の栄枯・人体毒血、若しくは飲酒・魚肉のなすものあり。其の一つを挙げて以て示さん。

 浅草田原町二町目、二宮平五郎の妻、眼疾を患う。此の人、雷と応をなす故、震わんとする前夜にこれを知る。近隣の婦女、戯れに衣を洗い物を曝すに其の日の晴雨を問うに神の如し。また平日に土器を喰うこと日に十枚に及ぶ。其の他、舟に乗り、駕篭に乗れば眩暈して嘔吐す。此の如く数年。先ず其の患の主たる眼病を治せんと、名手と称する所に詣でて治を請えども治せずして余に請う。

 即ち肩井・膏盲・絲竹空・大椎の両旁を刺して血を吸わしむ。吸わしむること二月許りにして物を視るに旧の如く明らかなり。明らかのみに非ず、半年余を過ぎれば他の疾病もまた一掃す。これ一処鬱を達すれば百骸に散在するの?血もまた従いて吸出せらること明らかなり(一カ所に渋滞している凝血を取ってやれば全体の循環が良くなる意)。

 此の理を以て?血の所在と其の凝結の多少により、若し発して下疳・便毒とならば其の処を刺して取り、若し発せず内に在りて雨雪を知り、寒暑に起こる打撲の処、若しくは婦人の血目と呼ぶものは頭上、或いは絲竹空にて取り、また打撲の処を刺して取る。すべて★瘡・疥癬の伝染するや、これ他の毒血と我毒血と応をなすなり。故に其の毒血を去るを善とす。若し十に六、七去りて十分去らざれば魚肉・飲酒に感じ発し、或いは痒く、或いは出で、これ其の発出する処に毒血あると散在して一処にあらざるとによれり。故に余は毒の所在に従い、?濁の悪血を去るを要とす。若し去るに難き疥癬は外より薬を伝えて内に入るの毒血を委中・尺沢、若しくは肩井・膏盲にて取る。取れば癒ゆ。此の理を知らざるの医は諸物と応をなすの理に昧く、奇怪の証に遭うと手を下すこと能わず。若し下すは無妄にして治することなし。医たるもの此の弁論を以て其の理を察せよ。

 先生また語りたまうは、すべて変の常なるは湯薬の治する処あれども、其の変なる者に至れば常と其の証も反して奇怪なることあり。銚子の亀屋平吉の妻、腹中★痛して堪え難く、諸薬を服すれども効なし。一、二日を経て血を吐すること日に一、二合、若しくは三合に至り、三日にして止む。止みて後苦しむ所なし。其の後再発すれば前の如し。月々其の日もまた違わず。是によりて其の身も思惟す。通ずべきの月経留滞して来るべきに来たらず。此の如くなるは月経口より通ずること明し(代償性月経が吐血という状態を呈したこと)。医に就いて治せんことを請えども治せず。余に治を請う。即ち委中を刺し、十四椎の両旁、及び肩井・膏盲より血を取る。取ること数十日にして治せり。

 すべて此の如くの証は皆変の変なるものにして、常を以て視るべからず。此の時に至れば尋常破血の剤の通ずべきに非ず。また凡庸の輩は口に吐するを見て吐血の血を収むるの治をなす。我は其のなす物を見ずして其の疼痛するの部位を按じ、其の当りの椎を外より刺して其の疼痛せしむる物の勢いを挫く。上は肩井・膏盲、下は委中にて取れば、上に吐する勢いなく、下に通ぜざるものを導く。此の如く其の大体に通じて治するときは治せざることなし。他はこれを知らず。無用の理を談じ、無益の湯液を雑投す。故に治すべき疾病も沈痾痼疾となす。実に悲しむべきことなり。

 小児驚風の類にて、たとえ死に至るとも、先ず其の身体・手足を見るべし。若し紫黒の処あらば刺して口にて強く吸わしめよ。蘇生することままあり。

 また丹毒の類は其の児の力こぶの中ほどを鍼を以てはね切り、力を極めて吸わしむるときは治するものなり。驚風にて死に至らんとするもこれを施せば宜しきなり。

 俗にハシリ疔と云うものあり。手より起きて肩背に及ぶ。其の起こるや一条の赤筋あり。直に逆衝す。早く其の先をしめて鍼を刺し放血するか、場所によりてふくべにて血を吸わしむるときは癒ゆ。実に危急の証にて人を殺すものなり。余死せりとするものや、已に死せんとするものを救うたること三十余人に及べり。

 前に挙げる、我と共に刺絡の術を切瑳し、其の極みに至らしめしと云う異人は、伊予の三嶋大明神の神官にして、天橋将監と云う人なり。此の人、奇疾を患うこと数年。故に其の郷里及び其の州に聞くる医の治を請えども治せず。或いは奇方・妙薬と云うを求めるに、価の高貴を厭わず。これにより資産頗る匱(欠乏すること)に至る。

 其の人思惟すらく、他に請わんより自らこれを治せんにはしかずと、もと文辞ある人にてありし故、医書を求めてこれを読み、また遠く師とすべきものを訪ね、其の道を明にせんとしてこれに従事し、数年にして治療の大法を知り、彼を服し、此れを服すれども治せず。

 また思惟すらく、鍼灸は湯薬の及ばざるを治するものと云う故、其の術を善くすると云う人に学んでこれを施せども治せず。後刺絡の書を見て思惟す。若し此の術を以て治せば治すべきこともあるべきと、其の術を善くするの人を訪れ治せんことを計れども治せず。 是に於いて志を決し、其の子に家を嗣がしめ、身は医学修業に志し、諸州を遍歴して其の患うる処を治せんとす。

 余、銚子に在りしとき、刺絡にて諸般の治をなすを聞き、余が居を訪ねて治を請う。其の病証を聞けば云う、其の病や、足の母指に起こり、漸々疼痛して股の附け根に至り腹に入る。入れば暫らく★痛して腰眼に出で、背を逆行し頭項に至り、欠盆に下り、また腹に及ぶ。また腹痛して腰眼に出で、漸々に下りて委中より踝骨の下に至り、其の痛み自然と治まると云々。

 余答えて曰く、我刺絡すること数年なれども未だ此の如くの奇疾に遭わず。然れども法によらば治すべし。然れども我がなさんとするものは世人のなすものと等しからず。故に心中にこれを思うのみにして、これをなすこと能わず。其のなすこと能わざる者は、病の治せざるには論なけれども、或いは他疾を生ぜんも計るべからず。其の他病生ずるにも論なけれども、若し生命にかかるの変あらんも計り難し。故にこれをなすこと能わずと云う。世人刺絡すると云うものは其の治すべきを治して、治すべからずとするものを治するに意なし。先生は其の治すべからずとするものを治するに心あれども、未だ其の術を受ける人なし。

 請う、我死生を以て先生に託せん。其の託するの主意は我が疾病、郷里の医を尽くし、州郡に及び、遠い国を訪れども治せず、治せざるによって自ら治せんとして治すれどもまた治せず。故に刺絡して治せんとし、あまねく訪れども未だ其の人を得ず。

 先生は云う、治するの意はありと云うとも受くる人無しと。我これによりて心中に其の事の必ず可ならんことを知る。知るものは他と同じからざればなり。若し我が身を捨て、施し難きとするものを受けん。これ平日疑いたまう所を決断せしむるものなり。若し治せずして死するとも我に於いて悔いることなし。請う、天に任せて先生の治を受けん。死生のことに意をおかずして思惟する所を尽くせと。

是により其の痛処に従いて鍼を刺し、血を取ることを談ず。

 其の人云う、是毒の所在に従うなり。何の恐れることがあらん。若し痛まざるに刺せば、禁穴・動脈忌み憚るべきなれども、其の病、其の処にあるに刺すは何の厭なことやあらん。内経にも云うずや、有故無殞(故あれば殞することなし)と。其の無殞や湯薬のみに非ず、鍼灸ともに然り。鍼灸然れば刺絡をなすも是、其の恐るるに足らざるの理なりと云う。故に其の痛みの起きる処、痛みの甚だしき処を刺す。また発するや、日に二、三次なり。発すれば処を択ばず刺す。刺すこと六十余日にして痛み漸々に退散して旧年の沈痾遺忘するが如く其の身もまた壮健なり。

 実に此の人なくんば我が術の極みを知ること能わず。これよりこのかた毒の所在を刺せば癒ゆることを発明して其の凝結する処、疼痛する処を刺す。刺せば刺すに従いて治す。古より羈束(拘束)して刺し難しとする処を刺して変なきことを知れり。実に我が術を輔翼して極みを知らしむるものは天橋氏なり。此の人なくんば我が疑う所を解すこと能わず。解しかざれば施し難し。今其の術を数百人に施して一失なく、一失なきの意を我のみに非ず、天下の医生に其の義を知らしめば、救い難きとするの沈痾痼疾を治せん。是天橋氏、其の身を惜しまずして治を受けしによれり。実に此の人は此の道の忠臣にして我が迷惑を開き、天下に其の術を広めさするの人なり。故に我、此の人を以て刺絡の師とす。此の書を観覧する人、此の人のする所を尊崇して軽蔑することなかれ。此の人無くんば此の道の迷惑を開くこと能わじ。実に尊むべく崇むべき人なり。

 以上挙げる所は見聞する所を記せしなり。これを以ても先生の論弁したまう如く、万病、其の根原は一?濁の血より起こることを知るべきなり。実に先生刺絡の道に於いては中興の祖と云うべし。

 そもそも刺絡の術や、上古専門に唱えしものは少なく、史策に載する所には、扁鵲・華佗のする所のみなり。内経にあるも、これ専門とはならず。其の他は説くもの百中の二、三のみ。万病回春に青筋を挙げしより、?脹玉衡に至りて専門の如し。然れどもなお湯薬の助けとなす故、其の大体を論ずることも詳らかならず。また其の文面も華美に過ぎて実少なし。是により其の術を用いるや今の便利に及ばず。近世蘭学盛んにして器械の精造頗る至れり。先生はよく刺絡の大体に通じてこれをなす故、湯薬は此の術を輔翼するの物たるの説を建て、万病唯一血の家言をなしたまうて、其の血を去るや、毒血の所在を刺し、真血を循環せしむることをなして恒言(人がいつも言っている言葉)す。

 東洞翁、仲景氏の方法を尊信して、其の遺訓に由りて其の論ずる所は後人の入とし、其の標的となるべき証を徴して薬能を知り、万病唯一毒の家言をなし、毒の所在に従いて薬を与うと云いて、晋唐以来の所説を排す。実に卓識の人と云うべし。

 然れども其の人、其の主意とする所湯液にあり。湯液は其の毒を去るや、汗吐下を得て去る故に、其の毒するものを見ず。是によりて其の物を指さずして毒と云えり。余は数年刺して其の毒と称する物を知れり。故に断じて?濁の悪血とす。

 唯?濁の悪血と云うときは衆皆疑わん。然れども今現に疼痛する処、拘急する処、若しくは凝結するものを刺せば鮮血には非ずして黒血を出す。出せば其の患う処のもの去る。去るの理を以て見れば悪血たること弁を待たずして明なり。また医断に論ずる所、万病唯一毒の説を建てるに、呂氏春秋によれり。其のよる所の書、また所在に因って名は異なれども、其のなす所以のものは一つたる趣を述べたり。

 なるほど周には医師を置き、治の多少によりて禄の黜陟(無能の者を退け、効用のある者を採用すること)をなすことをなす。故に医はまた実事に徴して効験あることを知るを要とし、無用の談論をなさず。故に其のなす所は一つなる趣を極めたるもの多きと見たり。然れども周道(周代の政教)衰微し、医師其の職を失して黜陟することもなきと見へて、左伝(『春秋左氏伝』)に載する所を見れば、漸く空論に及び、後世説の端をひらく。故に病膏盲の下にあれば治せずとす。これ弁論に趨り史家の縁飾(表面をつくろい飾る)に出づるなれども、其の主なる所は湯液のみにして刺絡のことはなきと見たり。今薬力及ばざるとするの凝結を刺して血を取り、癒えるを見れば、病膏盲の下に在りとしておきたるは湯液のみ議するの医なり。扁鵲が?の太子を治せしときは、中庶子は湯液及ばずとす。また扁鵲は其の知る所、湯液にも通じ、刺絡のことにも通ぜしと見へて、湯薬を与えずして鍼を以て治す。

また呂氏春秋に挙げる所を見れば周代の遺風ありて古言も存すること明らかなり。然れども其の所在により、其の名は異なれども其の根源は一つなることを述べれども、鬱とのみ云いて鬱せしむるものを云わず。是により其の義を観するに、此の時世には医と云うものは多く湯液のみ主とせしものと見へたり。若しまた扁鵲が如く、薬を与えず刺して治すると云うことを会得する者の伝える所ならば、悪血なりと其の物を直に挙げて示すべきなり。

其の他、韓非子(戦国時代の思想家、韓非の著)に疾病の理を云うことを見れば、よほど実事を踏みたる人の伝を聞きしことなり。漢に至り大倉公などのする所を見れば湯液のみ主たり。後漢に至り華佗が如きものは湯液・刺絡に通ぜしもの故にこそ、曹操が頭風を治するに瀉血せんことを請うを、三国史演義(明代の歴史小説。羅貫中の作。中国四大奇書の一つ)には其の身を亡する端に書き、范史とは霄壞たり。其の他、其の伝中諸般の治療皆奇怪。然れどもこれ伝聞と縁飾とに出て、史家の常なり。すべて左氏より以来、歴代皆然り。実に実事を論じ、実事に徴すること、国家の議論に関係するものは格別方技(医術、神仙術の総称)の伝などは然るべきことなり。

 我が万病唯一血の家言の如きは実事に徴して浮虚の説には非ず。若し東洞先生存在して万病唯一毒の説を主張すとも、我実事に徴して然ると云わば其の人、豪邁不羈(気性が激しく才知が優れていること)の人たる故に、其の説を不可とすることは非じ。彼の一毒と云うものは、湯液にて治することを工夫して其の物の去るを現に見ずして唯毒と云うて物を指さず。

 我は四十年、其の物を日々見ざることなくして、唯毒血しからしむると云う説を建てたり。また物に就いて病源を指せしは釈迦なり。物とは何ぞや。飲食なり。故に万病飲食の毒とす。然れども其の物や時ならぬもの、またあされたるもの(腐ったもの)ならば格別すべての飲食を毒とも云い難し。毒と云うべきものは酒肉の度に過ぎるなり。故に酒は量無し乱に及ばず。また肉をば食の気(飯の分量)に勝たしめず、と孔夫子も養生を示したまう。然れども度に過ぎ、度に及ばざるは既往(過去)にして咎めず。疾病已に発したるを治するには、瀉血すれば癒ゆるを以て見れば其の入る物を論ぜず、其の已になる物を論じて血毒とするの善にはしかず。

 釈迦の在世に婆耆(釈迦の時代の名医)あり。耆婆釈迦に親しきと見へたり。涅槃像と云うものには耆婆釈迦の臨終に来る所を画けり。然らば彼に親しきこと明し。故に経論中には医薬を云うことも少なからず。また仏家にて断食の行いをなすも耆婆の言に出るか。疾病を神明仏陀に祈るに俗はよく断食す。断食すれば旧患治するあり。

 余膈噎を治するに刺絡して薬を与うにも、先ず断食二日して、而後微々に食を与う。然りせず治するときは治するに難し。此れを以て見れば、これまた養生の一つたるなり。余無妄の言を発するに似たれども、実事に徴して数人に効あり。これにより、これまた耆婆が言に出るかと思えり。

 或いは余一毒の弁排して血毒となし、治療の第一は瀉血たりと主張し、湯液は客たるの論を難じて曰く、毒と云い、血毒と云うも、五十歩百歩なり。血毒彼に勝れると云うには非ず。また万病皆瀉血して治すると云うこともあるまじ。湯薬を客とするの説も偏僻(心が偏ってひがむこと)に似たり。また人には虚実あり、古今弁論する所、昭々明々なり。若しくは其の術を実証には可ならんが虚証にはいかん。

 余弁じて曰く、足下の難ずる所は衆の難ずる所なり。彼湯薬を主として刺絡の術に精しからず故毒と云えり。我はこれを四十年来病人に徴して血毒たることを知れり。すべて論は無益なり。其の論、精妙なるとも実事に徴なければ無益なり。また湯薬を主とするものの治を刺絡を以て治することあり。其の証を見れば内に在るが如くなれども外を刺して?濁の血を去れば内治せずして治す。これを以て内なるは外なるの理を知るべきなり。此の理を知らざれば頭痛を刺し、脚気を刺し、また反胃・血積を刺して治する所以を知ること能わざるなり。論より証拠は瀉血して治せし治験にて知るべし。また現に風眼などにて痛み甚だしきものを、尺沢より一合、若しくは二、三合も瀉血すれば癒ゆ。癒ゆる人、其の奇に伏せずと云うことなし。故に余は其の出れば癒ゆるものを指して毒と云わずして毒血と云う。

 また湯薬を客とするの論は偏僻と云うと云えども、余は世医のする所と等しからず。すべての疾病瀉血にて十の八、九を去る故に主とせず客となす。客と云いたりとて客を排するには非ず。主あれば客あり、客主なき所にあらんや。唯余が治の主なるは刺絡にして、主なる所を主張し、客なる所を主とせず。主なる証に逢わば証に従いて其の治をなす。何ぞ物に拘泥することあらんや。

 また虚実の如きは世医は外形に就いて云いて、其の虚実せしむる所以の物を知らず。すべて其の毒浅きものは疼痛をなして、実状の如き深きものは脚気などの如く虚状に類す(患者の全体の虚実と患部の虚実を見ることが必要である)。然れども余は唯瀉血のみ主として其の虚実の形状に拘らず。拘らざれども毒尽きれば虚実ともに治す。故にこれに拘泥することなし。

 唯刺して治すべきや否やは、其の人に対すれば、包丁の牛を解するが如く、其の形状をこれ見ず、其の毒血の所在をこれ見る。故に百人に施して一失なし。すべて余は虚と云うも変、実と云うも変と思い、其の変せしむる物を去ることを要とす。故に足下の難ずる意とは霄壤なり。凡そ人身は活物なり。活物なる故に真血は順行して天より賦し得る所の用をなす。

 若し?濁して悪血となれば死物なり。死物なれば活物とは異にして其の用をなさずして、若しくは渋滞し、若しくは留滞し、或いは腐敗し、或いは凝結す。然るときは活血順行を抑塞す。抑塞すれば種々の変状をなす。其の変状に従いて其の毒血の所在を刺す。刺せば去る。其の去るの見やすきあり。然れども人見て真血出づるとす。実に真血出づるものに非ず。

 知りやすきの譬えあり。人あり、尺沢を刺して血を取るに十人皆不同。多きあり少なきあり、出るほど出れば止む。若し真血出づるものならば皆同じかるべきなり。然るときは其の出は悪血にして、多少あるは毒の軽重によれり。唯刺さるる者、常に見ざるの血を見る故に恐怖す。病人数日来るときは血の多少を見て潮の干満によりて然るかと云う。  

 先生の説を聞き、小泉玄道に語る。玄道云う、肩背の拘急を患うこと久し。刺して治すべしと云う。乃ち刺して血を取る。其の妻また同じく強急し甚だしければ振寒して臥す。此の如くこと月に二、三次と。我がする所を見、刺さんことを欲すれども、血や多く出ん、また痛くやせんと恐怖せり。然れども刺して自若たるを見て刺すことを請う。故に先ず試しに左肩を刺し、刺して暫らく時を経て凝結解散することを覚えまた請う。是により右肩を刺し、玄道と我と刺絡の奇効を語る。

 稍時を移せり。其の妻云う、心気舒暢し肩背寛緩す。此れより以往発せばまた刺さんと云う。これによりて知る、天下の人情皆一般、唯慣れると慣れざるとの二つのみ。

 山脇家法に安南に漂流の舟子、肩背に灸するを見、土人始めは恐れ、後には請いしことを載せり。これもこれ、見ると見ざると、慣れると慣れざるによれり。また家法に牛馬の疾病に薬を与えることは少なく、刺して血を取ることを主とすることを挙げたり。これを以ても其の治の恐怖すべきものに非ざることを知るべきなり。また刺絡は服薬と異にして、若し応ぜず、或いは堪え難きときは止むべし。凡庸の医に無妄の薬を与えらるを甘んずるは、其の誤り知りがたく、常にして慣るればなり。

 すべて先哲のする所は刺す処を定め、絡血の見るべきものを刺す。先生は見るものは素より論なく、見ざれざるものを刺して奇効を奏したまうこと、挙げて数え難し。先生は実に此の道の極みを究め、毒血の所在を詳審に知りて刺したまう。故に癒えがたき沈痾痼疾を癒し、起死回生の功もまた少なからず。実に骨に肉す、と云うの治をなしたまうこと少なしとせず故、余深く其の術に感服して一書となせしと云うのみ。

 

 

刺 絡 聞 見 録 巻 下 終