叢 桂 亭 医 事 小 言   巻 之 一                   

 

  原 南 陽 先 生 口 授 

                                        

      門 人       水 戸   大 河 内 政 存   筆 記 

 

                常 北   丹     彜     校 正 

 

    医 学 

 

 医の学び難きことは、儒学と違い正典の無き故にて、世々の医師、其の見る所に依って己々の見解を以て道理を推して薬験を試みて、是にて違いなきと思う所を説き出す故に、多端になり、後学の者は何れに適従することを知らず。また何れの書も方薬を取りて用いるに一つ二つは異験あるものなれば、文盲の人は書に載りたるほどなれば、これに極めて他を顧みるに及ばずと思って励まさるに至る。畢竟徴を取るの書なければなり。

 内経・難経は古書なれば徴を取るべきものなれども、是また聖経と違い後人の作を雑り て五行に陥り、治療の際に至りては却って害になることも多し。然れども内経は古書なれば要語各所に散在す。故に悉く読まねばならぬ。また悉く取ることならず。

 程子の説に、此の書戦国の間に成れりと云うは、大儒の見にてさも有るべし。また『淮南子』と同作ならんと『七修類稿』に見ゆ。また徂徠先生の『素問評』には各篇に文章の違いあることを評せり。此の如くなれば一人の作にては無きと見えたり。

 愚按ずるに、『孔子家語』の文にも似たる所多し。また三、四部を集めて素問内経と名づけたりと云う説もあり。『史記』の倉公伝に、「公乗陽慶、尽く黄帝・扁鵲の書を収めて淳于意に伝う。是脈書。上下経。五色診。奇咳術。揆度。陰陽。外変。薬論。石神。接陰陽禁書なり」とあり。また「受読んで之を解験すること一年ばかりなるべし」と云うにて見れば、今の素問霊枢の事ならんと云う説もあり。

 また後漢の鍼医、郭玉力、師を程高と云う。程高が師を 翁と云う。 翁は其の出る所を知らず。常に 水に釣りするに因って 翁と号して、其の術、世に称せらる。鍼経・診脈法を著して世に伝う。疑うらくは今の素霊・難経の書は 翁の著する所ならんと云う説もあり。つまる処が明徴なきことにて其の人々の見なり。何れにしても一部中に一理に成り難き所ありて、是を註するに同意にせんとするは不案内なる事なるべし。

 難経は一人の作にて、是も古書なれども、全く今の素問を読みたる人にて無きと思う所あり。難経を療治本なりと云う古説あれども、今古の学力の異なるにや。

 さて此の如く事は鹿門先生の『医官玄稿』に論じて詳らかなり。医書の考は『医官玄稿』みて知るべし。また近ごろ桂山先生の『素問解題』に家々の説を具せり。黄帝岐伯の自作のように覚えたる目にては、古今論弁しても、盲者の五彩に於ける斉し。方薬は素難二書に出でざれば、今の治療には其の道理を弁(のきまえ)るのみなり。

 方薬は仲景氏の傷寒論に出たるを医方の鼻祖とす。仲景氏の事跡、並びに傷寒の名義のことは先に著す所の『叢桂偶記』に詳らかに載せたり。蓋し仲景の組み立てられたる方なるや、また後漢の頃まで通用したる古方なるや。其の徴する所無ければ仲景方と唱える外に云うべき言葉なし。ややもすれば古方は今の人に宜しからず、と云うことを以て口実となし、権貴の後庭、或いは富饒の人を惑わす。一体病にも古今無く、人身にも古今の相違なし。

 世人或いは言う、古人は質朴にて寡欲なり、故に肌膚五内も厚しと。是また古人のわけには非ず。古より天地に変わりなければ天地の間に生育する人間に違いあるべき理なし。若し違うとならば、天地の間に生産する薬石草木も其の性柔らかに成りて、人間とよきほどに釣り合うべきの理なり。豈に夫れ人間ばかり天地古今の違いあらんや。今を以て見るに、市民は奸巧、山民は淳朴なり。然れば風俗によりて古今によらず。病に至りては風土異なれば病を異にす。是れまた古今の違いたるに非ず。淳朴の民は五内厚きに非ず。奸巧とて脾胃薄弱に非ず。厚薄は禀賦(うまれつき)に在りて、山民必ず壽ならず、市民必ず夭せず。余嘗て『医訓』と云う文を書きて是を論じたりき。

 さて傷寒論も全書にあらざることは、先輩往々是を論ずる通り、闕文・錯簡多くありて、王叔和(鄭樵が通史氏族略に曰く、周の王叔虎が之の裔なり。王叔を以て姓と為し、此れに因って之を観れば王叔は複姓なり)撰次を経て今に伝うと雖も、王叔和の文も本文に誤入して、今の本は王叔和の撰次せられたる時の本とも違うなり。然しながら、此れ傷寒論に熟せざれば湯薬の始まる所を知る事能わず。古今の方の変化を見分けることもならず。よって余が門にて初学の童子には、先ず傷寒論を暗記さするなり。治療は傷寒こそ治し難し。表裏の証あればなり。此の病を理解すれば、其の他は准じて治療成るべし。また傷寒は証を以て之を治するものなれば、方証相適することを貴ぶなり。譬えば詩を作り歌を読むより、連歌俳諧に至るまで古人の句を広く覚えて居る故に、自己の句は胸中より出れども、古人の句を覚えたる力を以て佳句の出ると同前にて、胸中に種のなき人にては句弱くて下手なるものなり。

 医療も其の通りにて方証のこと胸中に無ければ下手なる道理。傷寒論に熟したる人は仲景の風に方もつき、『万病回春』に熟したる人は 廷賢の様に方もつく。則ち唐を学べば唐詩に似、宋を好めば宋風に出来る。其の格調は人々異なれども、平仄・韻字は違わず。詩は詩なり。此の理と医療も同味なり。然るときに初心の人、『万病回春』などによれば、桂枝麻黄の所へ参蘇飲・敗毒散と処剤すれば、唐と宋との風に違いたるばかりなれども、見えぬせぬ所に工夫が附いて、新婚、或いは妾の多きを見れば水蔵不足を兼ねたりと思い、劇職(いそがしき)の人を見ては気虚を帯びたりと、邪毒盛んにして脇目も振ることならぬ最中に他証の方を投ず。凡そ百の事、両端を持して宜き事無きにて知るべし。是を以て初心には傷寒論より学ぶばするは表裏の規則を知るのためなり。眼前の敵を敗れば民の塗炭は後に仕方の有る道理なり。先ず傷寒を治して腎虚・気虚は後に治すべきなり。是にて平仄の違わぬ療治なる所なり。然れば『万病回春』を読むは悪しきかと思えば、五宝散など云う神方は多くの先達『万病回春』より取り用いるを以て、『万病回春』も読まねばならぬことは知るべし。

 鍼灸は病によりて湯薬より奇験の有るもの故に常に学び置くべし。譬えば卒倒・驚風などは灸の力を第一とす。別て小児に異験あり。其の妙、一々に説きがたし。

 さて治療の際に臨みては、経絡に拘らずして新作意(おもいつき)にて鍼灸しても効をとることも有るべけれども、其の法を了解して後には新作意にて灸も鍼もなるべし。先ず其の法は『甲乙経』にて学ぶべし。古書なればなり。何故にや我が医道は古書より学ばずに末書より教えるにや。是先にも云う、正典の無き故に十四経・大成論・格致餘論などを先に読ませて、下手になれなれと仕込むなり。古を学ぶを学者の要とす。儒の四書五経を教える、則ち其の法なり。古書は是より古書なるは無し。終えて左国史漢、或いは老荘などと次第す。其の後には末書も思い思いに学ぶ。見識是に開いて修身の業成る。之を大いにしては治国平天下なり。是稽古と俗に習う事に唱える通り、古よりするを学者の法とするに、経絡は十四経によるは如何なる事にや。『甲乙経』は素問の考えになる書なり。 『医官玄稿』を読んで知るべし。

 兪穴は余が著す所の『経穴彙解』にて学ぶべし。銅人形にて学んでは悪しし。古書は皆頭面・腹背・手足にて穴処を分けたり。十四経行なわれてより各経にて分けるなり。経を以て分けたるは『外台秘要』に創まり、奇穴の任督に脈を加えて、十二経を十四経にしたるが滑伯仁が作意なり。夫れ兪穴は人身の骨隙・陥罅・分肉宛々たるを尋ねて之を知るなり。必ず分寸に拘らず、皆骨空・分肉に求む故に、銅人形にては方角ばかりを知るのみにて、治療に至りて実地にかからず。分寸は其の大概に備う。詳らかに『経穴彙解』に備論せり。

 四診と云うは医家、病を治するの大綱にて、是を捨てては何れにも療治することならず。四診は望・聞・問・切なり。望とは病者の顔色・肥痩・盛衰等を望む。聞とは苦痛するや、五音や咳嗽するや等を聞く。問とは苦しむ所、飲食の多少、二便の利・不利、病前よりの事、病者の問わざれば言わざる所を問う。以上にて病証・病因を識りて之を詳らかにして、其の後に脈を診する。是を切と云うなり。そこで病の軽重・安危を知る。よって病名をもうけ脈を切にするは吉凶・安危のほどを知り、治と不治とを知るの用にて、脈にて病を知ることの用には非ず。

 譬えば咳嗽寒熱を患える人あり、此の証は是労 になるべき病体なり。此れにて脈を切にするに、其の人の脈細数なれば難治とす。脈浮数にてあらば発汗して治すべしとなす。是労 には非ざる故なり。すなわち切の所にて定むるなり。脈にて病証を知るものと思い

ては悪しし。吉凶・安危を知ると云う所か。至って容易に知るべきものに非ず。此れに苦心すること多年、かさねて腹診を参伍して診脈の助けとすべし。腹診も意を留めざれば知りがたきものなり。

 死生命有り、と云うは聖人の語にてあれども、其の命の来るや来らざるやは誰人にても知れず。また命数かぎり有るものならば、病とも安然として居るに極めて宜しからんに、飲み難き薬を飲んで病を治するを以て見れば、治せば生き、治せざれば死の理なり。天命常なしと云うものにて、不養生・不用心なれば天命を終えること能わず半途に死す。其の死するにまた禀賦薄弱にて老壮に至ることのならぬ人もあり、是等を天命と云うべきなり。人の病する時に、是は治すと治せざると預め知りて療を施すを医と云うべし。治すか治せざるかを問わず、此の証をば此の薬にて治すべしとばかりにては、薬を飲むは医者を頼むに及ばず。書籍にあるままを薬店より取り寄せて飲むと斉しからん。夫れ医緩の晋侯を診するも、扁鵲の の太子を診するも、皆預め死生を知る。是古名医の行なう所にて、今に至りて医たるもの、一心不乱にて学び習うべきの手本なり。

 さて死生を云えば二つなれども得と味わえると一つなり。死なれども生なれども、はっきりと片々知れば夫れにてよし。死すと知れば生の理なく、生と知れば死の理なし。死生を詳らかに知って人命を療ずべし。其の死生を知るは脈より知りやすきは無し。さて脈ほど知りがたきは無し。故に望・聞・問・切と腹診を参伍して是を定む。死生さえ明らかに知るれば天下に畏るる所なし、鬼神をも哭かませしむべし。

 余が学ぶ所は方に古今無し、其の験あるものを用ゆ。されども方は狭く使用することを貴ぶ。約ならざれば薬種も多品になる。華佗は方、数種に過ぎずと云うは、上手にて面白きことを味わえ知るべし。其の源を取りて病を理解せば、一方にて数病を治すべし。『 氏遺書』の「善く薬を用ゆる者は、姜に肉の効あり」と云いしも此の理なり。何ほど奇験の神方にても用ゆる場悪しければ寸効なし。偏に運用にあり。広く方を尋ぬると繁雑になりて悪しけれども、博く方法を学んで、是を約にするを第一の学問とす。用ゆる場よければ生姜が肉桂ほどな験をなすとは、能々解了すれば将棋の如し。上手の指す駒も下手の指す駒も、其のききようは変わらず。同じように動かすうちに、歩兵は金銀よりも働きをなす。則ち此の理なり。下手のつけた桂枝湯も上手のつけた桂枝湯も同じ方なれども、下手なれば、つけた所ばかりなり。上手のつけたる方は、外の所に響きを以て、誰も同じくするように見える中に効を取るなり。

 世に古方家なるもの出てより、医の眼目を開き、今は人々仲景氏の方を使用することを知る。偏に古方家の功なり。

 名古屋玄医と云う人は丹水子と号して、至りて功者の大家なりけるとなり。『医方問余』『難経註疏』と云う書を著し、附子を多く使用する療治にて、痢病に逆挽湯とて天下に広く通用する方は、此の丹水子の方なり。此の一事にても其の功しるべし。『弁証録』にも大瀉門に逆挽湯と云う方を出せり、此れと同名異方なり(其の方、人参一両 茯苓二両 大黄一両 黄連三銭 梔子三銭 甘草二銭 水にて煎じ一剤を服す。腹痛除き、瀉もまた頓に止む。此の方、人参を用いるは、以て其の脾胃の気を固め、則ち気、虚脱に至らず。然れども奇は大黄を用いるに在るなり。〇丹水子の逆挽湯は桂枝人参湯に茯苓、枳殻を加う)。

 少しく仲景を用ゆるの意ありと云う時に、後藤艮山は佐一と称す。後藤又兵衛が末の由なり。先生弱冠より心中に日本にて第一の座に居て第二に続けざる、上座のことをなさずば生まれても甲斐無しと思慮するうちに、其の中、仁齋文学の名、海内に溢れる。此の上に立ちがたし。僧は戒行にて世に勝れんも安かるべけれども、深草の元政を其の頃、如来の再生と人いえば其の上に座しがたし。医は今其の人無きことに人を救う術なりとて、丹水子の門に入って丹水子に学ばんと、鳥目一貫文を携え束脩(みやげ)となして、入門せん事を乞う時に、都講(塾頭)其の常式に協わざるとて其の入門を許さず。佐一大いに怒って一貫文を地に投じ押しつけ、此の門を傾けて見せんと、言い捨て去りにけると。後に苦学独立して古方家の元祖と仰がれたり。先生治療を初められしきより、沈痾・癈疾、世医の難治として捨て置きたる者の治したるを見て、有志の輩一時に競争して門下に馳せ加う。故に高名の門人多し。其の書は『病因考』『師説筆記』あり。また『傷寒約言』『艾灸通説』など云う書、家に出て子孫に人物乏しからず。

 さて後藤の門人に数輩の豪傑を出せり。其の一人は山脇道作東洋先生と号す。『外台秘要』を刻し、『蔵志』『養寿院医則』を著す。中風を熱 癇を云う所より考えて、多く石膏を使用す。また一人は香川太仲秀庵先生と号すれども、堂号世に高く聞こえて一本堂と称す。『一本堂薬選』『一本堂行余医言』『医事説約』の著あり。艾灸を以て多くの沈痼を療ず。また一人は松原圭介と云い、此の人はさせる著述も無きにや、経験の家方を記したる書のみを見たり。其の門人に吉益周介東洞先生と号する人出て大いに高論を吐き、 『建殊録』『薬徴』『方極』『類聚方』等の書を著す。今世に古方と云えば吉益流のようになりたるは、全く吉益の豪傑によれり。別けて下剤を好む療風なり。此の頃京師古方大いに行なわれて、四方の書生競い学んで海内の療治の風、ここに一変す。世に四大家と云うは後藤・山脇・香川・吉益の四流を指す。其の意趣家々に異なり。

 山脇の門人に永富鳳介と云う人出て、赤馬関獨嘯庵と号す。京師の俚言に、人の心のままに任せずもとれる人を広く指して毒性と呼ぶ。蓋し其の唱の同じきを以て此の如くば号せりや。此の人、越前にて奥村良筑と云う人に従って吐流を受けて、上京し東洋先生に語れば、先生大いに嘉(くみ)し、嫡子東門先生を遥かに越前へ下し吐方を学ばしむ。良筑教えて曰く、吾が子こそ吐すべく証候具せり、と云うより徒に上京して東洋先生に其の侯を告げ、また越前に下向して吐薬を試みたり。

 本邦にて上古は知らず、吐流は此の良筑翁より創(はしり)たり。一代の内に一人も薬を乞うもの無く、絶したること両度ありとされども、泰然として吐を以て名薬と呼ばれる事、其の人物を思うべし。独嘯庵、活達雅量にして、『吐方考』『漫遊雑記』を著す。書中に人意の表に出たる所多し。山脇の塾に居る時、三条橋上に酔臥して奉行所より通達ありて引き取ることありと、其の任誕(やりっぱなし)なること斯の如し。然れども書生を励まし、人才多く出て来したりとぞ、以上の著述を読むずんばあるべからず。

 凡そ人の平生無事の常体は一身の陽気は外へ疎通するものにて、其の気閉塞し、内壅したる所の出来したるが病の起こる所なり。少しの滞にても閉塞して通暢せず、夫れを順行するように療治するを医薬と云う。夫れ人の毛孔九竅はみな発泄(もれる)の具なり。其の大なるは口鼻二陰なり。呼吸を止むれば死し、二便閉れば病むは人皆是を知ると雖も、周身ともに疎通を以て無事に居ると云うことは弁しかねる人多し。冬天清朗なる時に人の日向に在るを見れば、気の上に昇る影見ゆる。是は皆毛髪の孔より疎するなり。一身陽気外へ張りてあれば、寒暑・風湿ともにうけず、睡眠するときは陽気張らずして沈む故に、衣被を発開すれば病を受ける。仮寝すれば少しの間に風を引く。酒の醒際に外感するも、荒業力作して裸になりて騒ぐ中は、陽気大いに表へ張る故に風寒も知らず、休息する時に俄に風を引くは即ちこの理なり。また空腹なれば周身の気張らず。故に外感するも同理なり。気張ると張らざるとにて諸外感皆ここに起こるなり。

 さて邪を受ければ毛孔閉ずる故、気は表へ通ぜんとして出ることならず。故に周身皮膚の泄する所を尋ぬる時に、気升降してゾクゾクと悪寒す。其の時に毛孔へ泄れ出んとすれども、閉じてある故に張れあがりて粟起す。是を鳥肌と云う。発汗すれば外へ通暢する故外邪去るの理なり。この処を解しそこねて日を移せば、陽気外へ泄らすことならぬ故に内に欝す。外に泄れて出ることならぬと極めれば、升降して出路を争うの気止む。其の時に悪寒去りて熱ばかりと成る。ここが表症なきと云う場なり。夫れ故、往来寒熱は半表半裏と云うにて、外に達せんと云う気の猶残りてあるうちなり。胃中猶陽気を外へ敷くことの勢い有る故なり。また壮年の人、天井の低き所に長座し、或いは頭巾笠など着ては昇る気を押さえる故に欝して煩わしくなることあり。湯気のあがるも同じなり。とにかく疎通せねば陽気閉じて欝する故に熱になる。是発熱するの訳なり。

 さて其の陽と云うは何処より出来るものなれば、胃より出づると見ゆ。水穀胃に入って陽気を造り出すことかぎり無く止むとき無し。是を表へ通ずるが平生無事の姿なり。陰症となれば表を閉じたる邪気、次第に深く入って囲む故に、胃より造り出す陽気の通ずる所の分内せまくなりて、陽気も次第に屈伏して一身へ敷く所に至らず。そこで一身の端々へは一向にとどき合わぬ所が、手足逆冷、鼻尖も冷えるなり。是手足まで陽気のとどかぬ故なり。附子を用いて胃気を助ける意味知るべきなり。

 また腫物を発せんとして寒熱するも、周身の気通暢せざる処の出来たる故に陽気欝して熱するなり。また疔発などと云うは何事もなく卒倒するの後に疔を発す。項強背強にて卒倒するもの、俗に早打肩と云う類、早く血を去れば活す。是欝結を疏したる故に陽気発泄して癒ゆるなり。とかく疏通のよきは無事の時なり。

 盛壮の人、紙子を着すれば欝冒・昏眩するの類、皆推して知るべし。平人、常体を知って後、病体を考え知るべし。気は此の如く泄するを以て無形なり。凡そ飲食胃に入れば精気化して気となる。是乃ち人身の陽気にて即ち元気と云うものなり。此の陽気を造り出すこと胃の役にて量なく造り出す。其の造り出す陽気を通暢して運動するが人身の常体なり。皆胃の役なり。故に食を絶すれば死するは、胃気尽きて件の気を造ることならぬ故なり。呼吸の気、二便の利、皆胃より敷く所なり。故に胃気尽きれば陽気尽きるの理なり。

 一士人昏倒して縁より堕ちて、庭石にて額と唇を打ち破る。抱き挙げるに、本心なきにはあらねども、はっきりとはなし。脈伏して絶したるにあらず。先ず三黄湯を与えるに、二度飲むと今はよほど快しと云うや否や、疵つきたる所より血を流す。閉じる所あれば血の出ざるのみならず気の発泄せざる故に昏倒したるならん。味わって解すべし。

 天地陰陽の道、生育を以て大なりとす。故に産婦の治法を知るを専要とすべし。孫思 、『千金方』に婦人科を始めに設けるは此の意なり。生育のことは天地自然の事にて病に非ず。人事の入るべきことには非ざれども、難産に至りては病にて、其の法を得ざれば死す。皆是養護宜しきを失し、或いは多欲にて胎を偏に成し、執作度(はたらき)を失い、仆撲・躓倒(ころぶ)などにて横産するも有り。鳥獣は交わるに時あり、人は交わるに度無し。犬猫の類、已に胎を受ければ再び牡を近づけず、其の上卵生・被膜生は四肢の支えなき故に難産無し。また多欲なれば産後血熱多く血暈などし、此の血熱日を経て解せざる。或いは風冷などに侵されて咳嗽を加へ、終いに労 の状に至るものを蓐労と名づけ難事とす。

 其の倒逆生は自然に受胎の事にて、順産になすの術なし。子がえりと云うは虚妄の説なり。是は産前腹候して順逆は予め知らるべきなり。

 子玄子の腹候せらるるを見たるに百中なり。胎の腹内にある形を明に解すれば見外しの無きはずなり。子玄子一たび出で、千古の惑いを解して、天下初めて産乳の理を知ることを得たり。人事の大要、是を学ぶには、『産論』併び『産論翼』の二書なり。手術二十二ありて、回生・鉤胞の二術に至りては筆墨に明にすること能わず。故に『産論翼』にも此の二術を載せざるは禁秘したるのみに非ず、未熟にて人を誤り害をなすことを恐れる。此の二術を知らずんば死を起こすことならず。

 子玄子は『産論』に小伝あり、その神奇の事は今賛するに及ばず。其の術の始めを語らるるを聞くに、この時より此の事を考えつけて、此の術は始めたり。一々に奇異なること人意の表に出ず。只文字の無き人故に其の事皆俗事より発すれども、暗に紅毛(オランダ)の説に符合するは、天の告げるに子玄子を以てせるか。其の頃は紅毛学、今のようには行なわれざる時なり。また常に語らぐ、往時は寒窶(貧乏)にて古銅・鉄器を買いて生とす。殆ど窮せり。よって按摩を取り世を渡るに隣店に難産あり。急に作意にて術を設けて之を救う。是を斯道(この道)の始めとす。四十餘歳の時なりと。夫れより十四、五年の間に天下に名を振るい、一家の祖と仰がれたり。其の時より一貫町に住せり故に、また他に移るべからずとて、其の処に隠居す。

 性任侠なることは東門の序文に見ゆ。極めて世の物体(重々しさ)なるを悪む。或る時、一富商の婦、産後血暈して数名医を迎えるに甦(さめ)ず、雪中に子玄子を延くにより、常には紫の被風を着しっぱなし、目貫の短刀にて駕篭にて出られけるが、其の日には銀拵えの太刀、朱作りの鞘の大小を帯し草鞋をはき其の門に至れば、幾つも駕篭をならべ供も大勢居たり。やがて玄関にしりうたけし高く呼びて「湯を一つくれられよ、足を洗いたし。上工の医者は駕篭には乗れども治法は知らず。賀川玄悦は草鞋に乗りて来れども、指が一本ちょっとさわれば立ちどころに治す」と満座の時、師の並居るところを思うままに冗言すれども一言の返答するものなし。産室に入って禁暈術を行い房より出て「各御大儀、暈をは玄悦療じてござる。是からは各の手に宜しきほどなるべし、今より帰らんと欲す。夫れともまた悪くしたらば早く迎えをつかわされよ」と玄関の真ん中にて草鞋をはき、傍若無人なること皆此の類なり。

 九、十月頃、毎朝袖なし羽織無刀にて藜杖をつき、島原へ出る迄の貧民の籬落の間を閑行す。児童未だ寒衣を着ずに街頭に遊戯するを見て、六条へ人を遣わし綿衣を幾つも求め、件の児童に着せて廻る。是を楽しみとす。また宅の向かいの寺門に野乞食居る。寒中に至れば、夜々粥を煮、鍋のまま熱に乗じて其の処に持たせて一人も残さずに施す。故に是を知って乞食供群居せり。

 さて此の術、二代目子啓子までは異端の治法とそしられて、堂上に用いることなかりけるに、当代に至りて恭しく御医に擢んでられ、今は雲上に行なわれる。其の精しきは其の門に謁して学ぶべし。手術は常に熟せざれば用をなさず。

 さて唐にて産を論じたるは、別て臆説にて杜選多し。本邦にては中条帯刀と云う人、婦人の療治に名あり。世に中条流と云い、其の書至って迂遠の事あり。薬方は世に多く用ゆるに効験ありと云う。中古戦国の時、産婦と金瘡を一様に見なして同方を用いたること、此の中条流のみに非ず。昔時吉益流、浅見駿河守が家方、江州鷹見甚左衛門など皆戦場より仕覚えたる事と見ゆ。紅毛人の産を論じたるは皆実地にかけて其の図、子玄子の説と符合す。回生などには奇器も多し。よって思うに、腑わけと受胎の事などを論ずるは紅毛を第一とす。

 腑わけは一、二度も見るべし。内景を知りて格別理解することあり。今は民人、太平の時に生まれて干戈(戦争)を見ざること二百年。故に文運大いに開けて古に通ぜざる。異国の文字も読みて自由に通用する事になり、諸名家輩出せり。暇あらば学び問わん。

 唐にて腑わけのことは、前漢王莽が時に「粤 の蛮夷、任貴また大守を殺して根(骨)を枚える。 義党王孫慶、莽の使いを捕え得たり。大医尚方は巧屠と共に之を刳剥し、五臓を量度する。竹筵を以て其の脈を導き、終始する所を知る。云う、以て病を治すべしと」とあり分量などを見るは、唐の空理を好む学風より出て無益の事なり。内景を見るの意、其の所には非ず。

 さて産乳の事に通ぜざれば、経閉と妊者を弁ずること能わず。大病に仕立てること多し。孕候を知らざるに属す頃、一婦嫁して後、経行来たらず。父母おもへらく娠なりと一医をして診せしむ。飲食乏しく心気衰敗すれども悪阻なりとして省みず。漸く微寒熱を発し咳嗽して 疾になりてけり。是全く孕候を詳らかにせず故なり。其の候悉く腹診にあり。詳らかには娠者の治法に語るべし。然れども産乳の事は賀川家に従って学ぶにしくはなし。