長 沙 腹 診 考 

 

 

    総 論 

 

 万病多端なりと雖も、腹候を以て準則となすときは、全体を総て漏らすことなし。是故に病を診するに、腹を候いて病毒の所在を知るは古の道なり。扁鵲氏所謂「病の所在を視る」は之なり。疾医たるもの腹候を精究せずんば有るべからず。故に曰く、「腹候は治術の本、医たるの枢機なり」。『医断』に曰く、「腹は有生の本、故に百病此こに根す」。『東洞遺稿』に曰く、「先ず胸腹の病体を診察して、後に方定む」。『遺書』に曰く、 「腹候詳らかならざれば方を処せずなり」。以て見るべし。

 病を診するには先ず腹を候う。外症はこれに次ぐ。腹候明らかならざれば外症を詳らかにすること能わず。腹候は本、外症は末なり。『論語』に曰く、「君子は本を務む。本立ちて道生ず」。『左伝』に曰く、「物に本末有り、事に終始有り」。これの謂うなり。故にいかんとなれば、腹症を同じくして外症異なるあり。故に曰く、「腹候は治術の本、医たる者の要務なり。蓋し疾病は毒なり、毒は自ら象をなす、是を症と云う。症とは証なり」。扁鵲氏曰く、「病応に大表に見われる」。仲景氏曰く、「症に随いて之を治せ」。千古の確論なり。万病悉く腹に根し、変態百出窮むべからず。故に世にいわゆる中風・労 ・癲疾を以て伝継となる。予多く腹症を候うに、此の薬の症に限らず、諸病悉く其の血流に伝える病毒は父母の遺毒にして、父母、其の症あれば其の子孫必ず其の症あり。身体髪膚これを父母に受け、豈に病毒のみ無からんや。容貌・言語・毛髪・爪牙に至るまで父母に類せざるもの殆ど希なり。此れに因って之を視れば、人身の病毒に於ける一朝一夕のことに非ず、其の由来るや久し。百世を亘りて子孫に伝えるものは病毒なり。然れども其の病毒を除くときは父母必ず無毒にして、子孫、病患うを絶ちて永く壽域に登るべし。古、疾医の貴き、ここにあり。然れども腹候明らかならざれば未病を治すること能わず。『金匱』 「上工は未病を治す」と云う、是なり。疾医たるもの知らずんば有るべからず。予、兄弟諸州を遊歴し、常に未病の腹症を候い治を施し、歴験するもの少なからず。たとえ養性の道を行なうと雖も、常に病毒を除かざれば天年を保ち難し。

 予が家、腹診の法あり。病者を平らかに臥さしめ手足を伸ばし、医、病者の右に就いて呼吸を病者と合わせ、静かに手を下し、胸膈、次いで心下・両脇腹・臍傍・少腹、其の他項背・腰 一身悉く診て、いささかにても手に障るもの有れば病毒なり。心を潜めて診すべし。然れども手術練熟しざれば隱微なるものは俄に知り難し。故に精神を悉く手頭に注ぎ虚心冥腹にして診すべし。手にて見るとは思うべからず、心に応じるを得て知るべし。口耳不用、手心と謀る、これ腹診の秘訣なり。腹候は活術なり。其の妙処に至りては、師も弟子に授けること能わず、親も子に伝えること能わず。故に唯、規矩準縄に従い実物に就いて学ぶべし。始めは吾が手中に響きありて候い難し。行住坐臥、心を用いて手術を習うときは、目を用いずして明に物を弁じ、厚薄堅腕、手に従いて明らかなり。荘周曰く、「手に於いて得て、心に於いて応ず」これの謂うなり。世、腹診の醇粋を伝うるものなし。予、始めてして希声翁に学ぶ。希声翁は岑翁に受く。岑翁親しく東洞先生に授かる。今唱うる所の腹診の術は三先生、師弟相伝の正説にして、歴年経験の久し、発明云うも尽きず。然れども東洞翁没して後、弟子各一家の説を立て、疾医の道、遂に混乱す。予の兄弟多年歴遊してこれを四方に求め、始めて聞く処の希声翁の説に徴して、同じきは取り、異なるは去り、廃を継ぎ遺をひろい、悉くこれを実地に徴し、弟と謀りて、是に於いて腹候一家の言を成るものなり。 

 唐宋諸家、本邦の後藤・香川・山脇の豪然たる者、言は腹診に及ばず、腹候を論ぜしは東洞先生一人と云うべし。

 村井、世に洞門の高弟と呼ばれ、然れども腹診に於いては達せざる処あり。其の著す処『方極刪定』を見るに、大陥胸湯に結胸を刪り、木防已湯に水腫を補い、其の他、瀉心湯、 大黄牡丹皮湯及び数方の症候交錯す。悉く皆東洞の本意に非ず、大いに方意を失う。是を以て村井の腹診に疎漏なるを知る。また中西惟忠も同門に出て、晩年一己の説をたて、 『傷寒名数解』を著す。其の論に曰く、夫れ膈間に在り、則ち其の人之自ら知る所にして外候の及ばずなり。曰く心中懊 、曰く心煩、曰く心悸、曰く胸満、曰く結胸、曰く胸脇苦満、曰く気上がりて胸を衝く云々の数語如く之なり。此の一章にて中西の診法を知らざるを観るべし。又泉州の松浦耕介、洞門に学びて腹症家と称す。予、向うに京師にて其の門人と逢い、一日腹症を論ず。然れども臆断固陋にして虚説妄誕多く、東洞伝授の説に非ず。又和田東郭も洞門より出て然れども中年轍を後世医流に改む故に、其の著す処、腹診は信ずるに足らず。近頃江州の稲葉文礼、清州を遊歴して『腹証奇覧』を著す。然れども古方の醇酔に非ず、固陋の弊をまぬがれぬ。傷寒論は腹症第一の書なり、腹候の伝を得ざれば其の書を読むこと能わず。張氏の「随症而治之」とは病毒を指して云うなり。腹候を詳らかにせざれば病毒、腹にありや背にありや胸にありや腰にありや知るべからず。同じ嘔なれども、胸満して嘔するあり、痞 して嘔もあり、腹満して嘔もあり、病の本は腹なり。明らかならざれば外症も極むること能わず。

 

 

    上 衝 

 

 上衝は上逆し、上に向かって突するなり。壮士髪、冠を衝く、これなり。『薬徴』に曰く、「衝逆を主治するなり」。胸膈を診するに、ザワザワ、ズンズンと手に応ずるもの上衝是なり。、或いは心中悸と混ず、心を用いて診すべし。上衝の候は上膈の左右を主として残らず心胸に及ぶ。『東洞遺書』に曰く、「上衝は上気なり。叉手頭汗面赤を以て上衝となすは臆見なり。上衝は唯上衝なり。眼目芒刺は眼目芒刺なり。概して上衝となすべからず」と云々。桂枝湯曰く、「其の気上衝する者」。桂枝加桂湯曰く、「奔豚気少腹より上がりて心を衝く」。桂枝甘草湯曰く、「其の人叉手自ら心を冒えども心下悸按ずるを得んと欲する者」。苓桂朮甘湯曰く、「心下逆満、気上りて胸を衝き、起てば則ち頭眩」。其の他、「気上がりて心を撞く」と云い、「気上がりて咽喉を衝く」と云い、古人みな心胸に於いて上衝を候うこと明徴たる。以て知るべし。

 右の衝逆にて腹候を審らかにすべきは、 黄散・紫円・呉茱萸湯・瓜蒂散等なり。又桂枝湯去加の方、参考して方意を明にすべし。

 

    付言

  予の兄弟、多年諸州を遊歴し、大老蓍宿に謁し、腹症を論じ上衝の診法を問うに詳らかならず。予、偶、上逆を患い、心胸煩悸して眼目了々ならず、書を読みて記憶すること能わず忘然として数日を送る。甚だ此の症に苦しめり。時に苓桂朮甘湯を服す。小便快利し、心胸爽然として上逆頓に治し、積年の腰痛ともに除く。是に於いて豁然と上衝の診法初めて貫通す。而して後、此の症に対するごとに薬方を与えるに影響応じるが如し。是を以て他の腹症を診するに、手に応じて、日々月々発明して数年ならず。長沙腹診の法を微蘊窺うことを得たり。豈に天の寵霊に非ずや。予、往年北總に遊びしとき、飯岡村、永福寺の住僧、年に五旬ばかり頭眩を患う。発するとき頭響きて身体を動かすこと能わず、其の自ら癒えるを待つ。二日も三日の飲食せず、壁によりて座し、およそ斯の如きもの已に十年  ・・余と云う。治を予に乞う。予、診して沢瀉湯を与う。其の時医生五、六人集まりいて各診察して、苓桂朮甘湯なるべしと云う。予、肯せず、沢瀉湯三貼を作りて帰りぬ。其の夜大いに瞑眩して吐瀉傾るが如し。人来りて告ぐ。弟往きてみるに、他病に非ず。果たして薬の瞑眩なり。気づかうべからずと云いて帰る。翌日上人入来せりときも喜ばしげに語りて曰く、昨夜瞑眩愈えて後、熟睡したり。今朝に至り積年の患いを忘れたりと云う。ここの医生も又集まりて診するに、肥満も減じ項背などの強ばりたるも緩み、心腹ことの外柔らぎ、昨日とは大いに異なり、人々吾が腹診の精しきを感ず。然れども予其の時深く思慮せしに非ず、唯上衝の有無を察し方を択び、沢瀉湯を与うべしなり。すべて妙と云うものは己れの撰、之をいれずスラスラと自然に出るものなり。法は古人の法に従い、活物に当たるときは吾がものとなり、其の時、其の人に触れて新奇を出し、更に古人の糟粕に非ず。自然規矩にかなうことものなり。故に初めには規矩を守るを第一とす。其の規矩とは即ち此の腹症なり、ゆるがせにすべからず。

   

   

    心 煩 

 

 心煩は、心中煩悸の謂れなり。手にて診するにザワザワドキドキと応ずるなり。薬徴に曰く、「黄連は心中煩悸を主るなり」。梔子は心煩を主治するなり。梔子・黄連同じく心煩を治して症候異なり。宜しく薬効を考えるべし。また小柴胡湯・調胃承気湯に心煩あれども主症に非ず。此こに心煩というは黄連の主治なり。心煩の煩は、いたつかわしと訓じて、やかましき一義なり。「★★★★★」

など運用して事の煩わしきを云う。此の症を患うる者、常に眼光鋭く惑気取りとまりなく、安眠なり難く、心忙わしく、或いは好んで物を忘れ、或いは物を案じ過ごし、或いは怒り悲しみ、或いは狂乱の如く、或いは時として死を顧みずの類、皆胸中結毒の為なり。屈原曰く、「心煩慮乱、所知らず、古言苟もせざるを知る」又激裂感慨の士、多く此の症あり、知らざるべからず。

 

 余昔年日光に遊びしとき、舩生村と云い、斉藤某と云う者、年二十四、五ばかり。口吃して語ること能わず。又時として夜中目覚めて自身体の大になると覚え ることあり。来りて治を乞う。診するに心煩甚だしく、心下痞す。瀉心湯を与う。

 数月ならずして諸症悉く治し、言語意の如し。其の母亦腹候を乞う。診するに心中煩して安眠なり難し、心下痞す。同じく瀉心湯を与えて治す。其の母時ありて身軽きこと鴻毛の如し、空を走るかと覚えると云えり。ともに心煩のなすところにして外症異なるなり。又同郡玉生村と云うに、玉生某なる者、乞いて来りしに、其の序に数多く平常の腹症を診せしに四、五歳の小児あり。眼中鋭く人を射るが如し。余主人に問いて曰く、痘は未だしか。曰く未だなりと云う。然らば常に三黄丸、或いは紫円を常に服さしめよ、胸中に毒ありと云いおきす。其の後一年許りを経て、玉生氏に逢うたり。余を見て泣いて曰く、先生向きに我が家に来りし時、小児の眼中を見て云々のことありしが、怠りて薬を用いず、近頃痘瘡行なわれ俄に大熱ありて卒に死せりと云う。

  

  

    心 悸 

 

 心悸は、胸跳りさわぐなり。按ずるに、ヒクヒクドキドキとす。漢書酷吏伝に曰く、霍光、手を挙げ自ら心を撫でて曰く、我、今病悸に至らしむ(顔師古註に悸は心動なり)。 王延寿魯霊光殿賦曰く、心★★以て悸を発す。心中悸・心下悸・臍下悸は皆跳り動くを云う。詩に容たり遂たり、帯を垂るること悸たり(伝に曰く、垂はその紳帯悸々然なり)。 煩と悸と其の義別なるべし。

  

 附言に曰く、予悸を診するの法を工夫して門人に示す。悸は夜半にても暁にても小便の溜りたるをこらえれば果たして悸するものなり。これにて心得べし。古方悸の症多し。然るに世医心を用いて診する者なきは何ぞや。東洞翁没して後、腹診の法絶えて其の術伝わらざる故なり。夫れ医は万巻の書を読むと雖も名師に遇いて口秘訣を得ざれば其の道に達すること能わず。亦伝授を授かると雖も、服膺して多年刻苦精究せざれば妙処に至ること能わず。或いは書に曰く、 ????

  

    心 気 不 定 

 

 類聚方、瀉心湯の条に心気不足、千金方に不定に作る、今之に従う、と有り。村井、 『方極刪定』に不定の説を廃して心煩云々となす。未だ東洞翁の意を悟らず。薬徴所謂不定は煩悸の謂れなり。故に心煩と云わずして心気不定と云わるにて、瀉心湯の方意尽くせり。の卓識に非ざれば能わざるところなり。孟子に「文を以て辞を害せず」とは是の謂れなり。術を以て術を解するにあらざれば方極の妙用知るべからず。村井は洞門の俊然にして此の言をなす。医道の得がたき以て知るべし。余向きに『方極刪定弁妄』を作りて村井の学弊を正す。見て知るべし。

 

 野洲天明にて一男子年十八、飲食常に三倍して大便月に漸く一、二度なり。余診するに、心中煩悸して眠りがたし。瀉心湯を与え治す。

 東海道蒲原駅に木屋某なるもの、時として心気惑乱、或いは人を罵り、或いは物に感じて啼泣し、或いは坐しながら地中へ引き入らるる如く思う。物に驚き正気を失う。凡そ患うこと二十年、京師に上ぼり、又東都に趣き、百方治しても又起こり、難儀し余に診を請う。診するに、心中煩悸して心下痞す。則ち瀉心湯を与え、示し曰く、長服すれば病毒を除くべし、と云いおきぬ。其れより処々遊歴して帰りに尋ねければ、其の後は絶えて起きることなし、とて悦びぬ。其の外瀉心湯にて奇効を得ること少なからず。不定は煩悸の謂れなり、と心得るときは方用広く、心煩となすときは方用狭し。学者知らざるべからず。

   

    心 中 懊  

 

 懊 は蓋し憂悶の意なり。懊悔懊悩と連用す。心中悶え悩むなり。傷寒後欝症などに多くあり。何となく胸苦しく、或いは常に物わびしく、或いは言うにも言われず泣くにも泣けれず、わけもなきに泪もろく、又胸中痛みあり。遺書に曰く、懊 は世に所謂食傷にて吐す前の胸中にて知るべし云々。梔子鼓湯に曰く、虚煩眠るを得ず、若し劇しき者は反って覆転倒、心中懊 、又曰く、煩熱胸中窒り、心中懊 は梔子湯、大陥胸、大承気の条にあり。其の弁別三等あり。心煩云々して懊 するは梔子湯なり。結胸云々して懊 するは大陥胸湯なり。腹堅満云々して懊 するは大承気湯なり。又瀉心湯、或いは呉茱萸湯の症に胸痛して懊 に類するものあり。混ずべからず。梔子湯加減数方あり。故に世に懊 の症少なからず。心を用いて診すべし。

 

 予昔年郷にありしとき、常州小栗に一婦人年二十許り、俄に胸痛して言語すること能わず。其の痛み忍ぶべからず。数方効なし。梔子湯一服にして痛み頓に止む。又野洲今市に傘屋の倅、年十五、六。気思い欝々として楽しまず、諸治効なし。予診するに心煩して眠る能わず、梔子湯を用いて数月ならずして全く治す。其の他、此の方にて奇効を得ること少なからず。

 香鼓の製、薬徴に詳らかなり。予又略製の法あり。黒豆を甑桶にてふかし人肌にさまし、陶器に入れ青菜を覆い二、三日経て黴を生じ、取り出し日に曝し、水をうち少し湿せば又陶器に封し、四、五日にして再び甑にて蒸し、日に乾かし用ゆ。

                            

    胸 満 

 

 胸満数種あり。或いは凸、或いは凹、或いは円。手に按ずるに実するもの、皆胸中毒ありて満するなり。『東洞遺書』に呉茱萸・厚朴・枳実の胸満、病人に方を処して治するを見て会得すべしと云々。余積年経験する処、ここに其の概略を述ぶ。呉茱萸は胸中凸にして、頭痛、或いは目眩、或いは嘔、或いは手足厥冷あり。枳実は胸中凹にして、実す。厚朴は胸中平円にして満する状あり。すべて胸中は手術鍛練に非ざれば候い難し。心を用ゆべし。然るに中西惟忠の『傷寒名数解』に「夫れ膈間に在るは則ち其の人の自ずから知る所にして、外候の及ばざる処なり」と云えり。笑うべきの甚だなり。膈間の病、外候の及ばぬ病者の自ずから知る云える。心煩・上衝・結胸・懊 ・胸満・胸脇苦満・胸痺、其の他、胸間の諸症いかにして候い、いかにして知る。猥りに病者の告るを待ちて臆を以て推して知るか。余これに因て中西、洞門の傑出なれども議論を逞しうして実地に暗く、腹診に拙きを知る。然るに世の狡児、『傷寒論弁正』を以て傷寒論註解に於いては天下第一書となす。嗚呼註家の頼み難き、以て知るべし。故に吾が徒一切註家に藉らず、直に正文に就いて読み、病者を注疏となし、実地につきて道を求む。余嘗て『傷寒論考徴』を作らんと欲す、暇なくして未だ果せず。

   

 余同郷の故人、青木高田の妻、年四十許り。一時大いに胸痛を患う。諸薬効なし。余診するに胸満して心下痞す。乃ち呉茱萸湯を与え頓に癒ゆ。

 余が妻の母、頭眩して嘔し胸満殊に甚だし。呉茱萸湯を服して忽ちにて治す。希声翁常に項背強急に胸満を兼ねるに葛根湯に呉茱萸湯・人参を加えて呉葛湯と号し用ゆ。嘔して胸満する者、此の方の主症なるを傷寒論に「吐利厥冷煩躁して死なんと欲する者」とあるにて世医常に呉茱萸湯を用いることを知らず。疎漏と云うべし。

   

    結 胸 

 

 結胸は胸疾なり。胸中陥下して引きつまり、項背強ばり心下より少腹まで 満するもの大陥胸湯の症なり。凡そ此の症を備う者、卒病(世に云う所の卒中、或いは早打ち肩、そり病等なり)の徴なり、ゆるがせにするべからず。村井『方極刪定』に結胸とあるを刪て「心下より少腹に至りて 満して痛み近づくべからずの者」となす。師説に戻るのみならず、大いに方意を失う。『建殊録』付録に曰く、「大陥胸湯の主治は結胸の疾なり」。 『東洞遺書』に曰く、「結胸は胸中のこと心下満して 痛は胸中の毒の及ばざるなり」とあれば、結胸は大陥胸湯の主治たること明らかなり。村井知らずして妄誕をなす。

   

 余中山道、深谷駅に在りしとき、芹沢某なるもの、年五十余。卒然として病にかかり、湯薬口に入ること能わずして斃れる。又一月を経て其の妹五十許り、卒然として人事を失う。家人あわてて来り、余を招く。速やかに至り診するに、結胸して項背強ばること甚だし。三稜鍼にて肩背を刺すこと二、三十処。然れども血出ず。其の中大陥胸湯を急に煎じ口に注ぎ、凡そ一時ばかりにして大便大いに通じ、心胸安きを覚う。然れども病毒尽きず、故に大陥胸湯を作り危急の手当てにあたえ置きぬ。居ること二、三日、再び発す。尚又右の湯を用ゆ。凡そ此の如きこと三、四次にして全く治す。

 同郷八田村に一老婆あり、年七十五、六。湿瘡癒り後、一身洪腫、短気、息迫して将に死なんとす。大陥胸湯を与う(甘遂一銭、大黄二銭、消石四銭)。大便大いに通じ、数日にして癒ゆ。

 上州桐生、指物師の老母五十の齢。水腫を患い結胸し腹実満、起臥すること能わず。大陥胸湯を用いて治す。

 深谷駅万屋の僕、藤吉年五旬。瘡毒内攻して一身悉く腫れ、胸腹大満して其の苦云うべからず。衆医みな必死となす。余大陥胸湯を作り与う。下利数十行、諸症頓に治す。

 舎弟太門桐生にて浴室に入りたるに一男子を見て、汝は卒病を発する症ありと云う。男子驚いて曰く、僕常に胸痛くて肩背強ばる故に、身に小刀を離さず持てり。危急あらば切り裂くべきなり。若し良術あらば施し給えと云う。弟診するに果たして結胸の症あり。大陥胸湯を時々服して其の患を除くと云う。凡そ此の症は危篤の症なり。軽視すべからず。余大陥胸湯を用いて数奇効を奏す。挙げて数うべからず。傷寒論に結胸の症備わるもの死と云う。後人の語にて信ずるに足りざるとも綿延して療ずるときは救うべからず。病に先を以て薬を与うべし。薬が病毒を製すと製せざるにあり。兵法に、先んずるときは人を製す、後るるときは人に製せらるなり。余間々用いるべきを用いずして遂に死するもの数多くあり。仮令猛毒なりとも一歩も先んずるときは薬効なきことなし。其の機を失うべからず。余京師に在りし時、藤井上總大掾の妻、産後水腫を患う。余診するに大陥胸湯の正症なり。与えんとせしに衆医拒みて用えず。終に死す。大葬にせし時、心下に浮石の如きもの二つ有りて焼き残れり。これ乃ち塊物なり。余及び門人三、四人して診せしとき、心下に塊物二つあり。主人これを見て大いに歎ずと云う。 

    胸 痺 

 

 胸痺は胸中気塞がり息だわしきを云う。『薬徴』に曰く、「所謂胸痺は胸膈痞塞、是なり。橘皮・枳実・杏仁等の主治あり。腹証を詳らかにし、胸痺の条見合わすべし。世此の症多し。

   

 余郷にありしとき、一老母霍乱を患う。胸中痺して息すること能わず、人参湯を与えて治す。

 北総銚子にて一男子喘息を患う。桔梗白散を投ず。大いに激すと、茯苓杏仁甘草湯を与う。漸々に癒ゆ。

 余同郷桑の川に一病者あり。胸痺を患う。常に大便微結す。一医大承気湯を与   ・うも応せず。余 苡仁附子敗醤散を以て治す。

 

    胸 脇 苦 満 

 

 胸脇苦満は胸脇を按ずるに、何となく手にこたえて応ずるもの有りを覚ゆ。満して外に張り出るあり、引きつまりて内に実するあり、心を潜めて診すべし。傷寒論に曰く、胸脇苦満、曰く胸脇満、曰く胸脇満痛、曰く脇下満、脇下痞 、皆類症なり。脇下を指して苦満と云うは部位を知らざるなり。『東洞遺書』に曰く、「胸脇の指す処はすべて中行を去りて、左右是脇なり」と云う。『薬徴』に曰く、「柴胡は胸脇苦満を主治し、寒熱往来・腹中痛・脇下痞 を傍治する」。苦満と拘攣とは間、形状まがうものなり。腹中急痛は先ず小建中湯を与え、差えざるは小柴胡湯を与う。是苦満と拘攣の区別あれども、前後に従いて活用す。世医寒熱往来を柴胡の主症となすは、末に泥んで本を知らざるなり。胸脇苦満して寒熱往来するもの、柴胡の症なり。寒熱往来は諸症に兼ねぬ。概して柴胡症とすべからず。さて又大柴胡湯の腹状やや似て然らざるものは桂枝加芍薬大黄湯・真武湯・茯苓飲なり。知らざるべからず。また瘧疾を患うもの、柴胡の症多し。塊物常に胸脇に隠れ、時として脇下に出没す。是謂う処の瘧牡なり。

 

 野州宇都宮にて植木屋鶴吉と云うもの、謂う処の欝症を患う。腹拘攣甚だし。時々盗汗自汗等あり。小建中、或いは黄耆建中を与うること凡そ五、六十時。未だ効を奏せず。或る日診するに、胸脇に物あるを覚ゆ。大柴胡湯を与う。大いに瞑眩して胸腹刺痛下利数行、数剤を尽くさずして全く癒ゆ。

 武州秩父郡薄村にて県令、山本大膳の宦吏、青木某、傷寒を患い絶食数日。衆医以て必死となす。余の弟、深谷駅にありと聞いて人を馳せて治を索む。弟の太門往きて診するに、胸脇苦満して大便不通、即ち大柴胡湯を与えんと云う。前医進んで曰く、僕薬已に大柴胡湯加芒硝を用う、然るに薬汁皆吐して応せず、則ち大柴胡湯の症に非ず。大門曰く、大柴胡湯の正症なり、芒硝を加うべからず、と云いて用ゆ。三剤を服して大便通ぜず、衆医皆疑う。益々前方を用い、大便大いに通じ、食気出て次第に快復す。

 一男子陰嚢潰爛して、痛み甚だしく臭穢鼻を覆う。前医梅肉散・七宝丸等を用いて効なし。余診するに胸脇苦満して腹中結毒あり。大柴胡湯を与えて一月余りにして癒ゆ。

   

    項 背 強 急 

 

 項背強は毒、背に着くなり。論に曰く、項背強こと几々。東洞先生、急の一字を補いて几々の形容を尽くす。几々は詩経に見えて注に短羽の見とあり。飛ぶに飛べれず。居すくみたる状を云う。項背強急するもの、拘攣腹底に沈みて脇下に攣急す。是葛根湯の腹状なり。意をそそぐべし。項はうなじ、背はせななり。背は面に対するの名にして俗にうしろなり。故に一身四肢背強急は葛根の主治なり。吾が友人、京師の穂井田忠友、和州吉野にて大なる葛根を採れり。其の性自然に生い茂りて山の背を貫けりと云う。又真葛の風に飄るを裏見葛の葉と云えるも背に緑あるを以ての言なるべし。葛根の性、項背を主治する明らかなり。『薬徴』に曰く、「葛根の主治は項背強ばるなり」。傷寒論に曰く、「項背強ばる云々、気上りて胸を衝き口噤して語るを得ずは剛痙と作す」。金匱に大承気湯と並びて痙病を治す。痙は反病なり。古人篤劇の疾に葛根湯を用ゆ。然るに後世風邪感冒の主薬とのみ心得る。此の方の本意に非ず。千古の遺憾と云うべし。世に所謂労 なるもの此の症尤も多し。宜しく微病を治すべし。すべて項背強ばるもの、早く葛根湯を用いて毒を除くべし。然らざれば種々の変症を発す。労 ・肺癰・肺痿、或いは乳癰、或いは諸眼疾等を患う。古書に疾膏盲に在るを治すべからず、ゆるがせにすべからず。

 

 華岡青州、乳癌を療するを見るに、独嘯庵『漫遊雑記』に本づき金瘡の法を用ゆ。然れども内薬を用いて病根を除くことを知らず。唯外患を治す故に其の毒、内攻して幾ならず。欝症を発して死す。華岡のなす処、真治法に非ず、嘆くべし云々。余多く乳疾を患うものを診するに、其の毒、項背と少腹にあるをみる。余故に曰く、腹症は治術の本なり。腹候を知らざれば病を治すること能わずとは、これが為なり。

  

    心 下 痞 

 

 痞は塞がり滞る形、或いは物を袋へ包みたるもの水上に浮かびて手にモックリとこたえて、按ずるにこたえるものなきが如し。心下痞、之を按じて濡といえるは格別なり。濡は の反にて、柔らかなる意あり。黄連は心悸して心下痞を主治す。黄 は唯心下痞を主治す。『薬徴』に曰く、「黄 の主治は心下痞なり」心下痞するもの下利の症あり。黄 剤の条下参考して方の意を明らかにすべし。

 

 一老婆喘息を患う。余診するに、心下痞して心悸す。附子瀉心湯を用いて効あり。心下痞は按ずるに、物有りてこたえず、痞 はしかと手に応ず。然れども実地は字義を以て論ずべからず。心下痞は黄 、心下痞 は人参、各々主治は異にす。弁知せずんば有るべからず。

 

    心 下 痞  

 

 痞 の は硬と同じ。なめし皮と訓ず。心下を按ずるに、手にこたえて実するもの痞 なり。『東洞遺書』に曰く、心下手に当たる者は なり。と云う。『薬徴』に曰く、「人参の主治は痞堅・痞 ・支結なり」蓋し分量の多少を推して知るべし。又『薬徴』に「人参は心下結実の疾患を治す」と云々は大義を挙げて痞堅云々の症候を悟らしめん為なり。同書に「人参、心下痞 して悸するを治すなり。黄連、心中煩悸して悸するを治するなり。肉 筋 して悸するを治すなり」とあれば、いよいよ腹候審らかなり。吾が伝うところの腹候を以て東洞の著書を考え、又東洞の著書を以て吾が腹候を考え、これを実地に徴するときは仲景氏の方法、粲然として明らかなり。

    

    心 下 痞 堅 

 

 堅は論語に「鑚てばいよいよ堅し」といい、又堅石堅氷の堅にてかたしと訓ず。 は天寒膏硬の硬と同じく、堅とは義異なれり。然れども、方極に木防已湯、痞堅を痞 となし、膏加茯苓湯には痞堅としるしたるは人参と芒硝との異を示して方意を明らかにせしなり。凡そ心下の疾は数症あり、心下痞・心下之を按じて濡・心下支結・心下痞 ・心痞堅・心下 満・心下石 ・心下痞 満、蓋し痞堅は心下を按ずるに手に堅くこたえて堅実の物あり。又堅からぬ結毒心下に満ちて実するあり、これを治するに痞堅と同じ。堅は診しやすし、堅からずして云々なるは診し難し、自得にあり。木防已湯及び去石膏加茯苓湯之を主る。世に脚気、或いは鼓脹を患うるもの、此の症尤も多し。凡そ痞堅するもの口舌乾燥、或いは頭眩、或いは頭重、或いは短気、或いは身体冷、或いは両脚疼重、時として腫気を発し、或いは小便瀕数、或いは大便自利、或いは眼目蒙々として明らかならず、すべて心下痞堅を目的となす。『方極刪定』に此の方、本水腫を治し、治す所に別無しとて水腫の二字を補えるは非なり。此の方、痞堅して水腫あるものを治す。心下痞堅せざるもの水腫の症ありと雖も此の方の主るところに非ず。痞堅は腹診に非ざれば知りがたし。水腫は外候にて目見て知るべし。村井腹候を知らず、又方意を解せず、妄りに先師の著書を議す。陋しと云うべし。凡そ心下の病は危篤の症あり、ゆるがせにするべからず。柴胡加芒硝湯、或いは大陥胸湯、或いは甘遂半夏湯、或いは十棗湯、或いは消石大円、或いは紫円、又桂姜棗草黄辛附湯、枳実湯の症あり。故に薬能を詳らかにし腹症を明にし治を誤つこと勿れ。

 

 余先年宇都宮にて一病夫を療ず。胸脇苦労の症あり、大柴胡湯を与えること凡そ百日程、自若として癒ゆ。余精きを凝し、思いを覃し熟察するに、心下結実して小便数、口舌燥、時として頭眩を患う。即ち木防已去石膏湯を作りて与う。小便快利、数日ならずして癒ゆ。是に於いて初めて此の湯の方意を悟り、続けて葛根湯と大承気湯の腹症に於いて大同にして小異なる。其の他、小建中湯・桂枝加桂湯・大黄牡丹皮湯・桃核承気湯の数症数件を発明す。 

 深谷宿に西島某の妻年三十処、水腫を患う。衆医手を束ねて斃を待つ。余診するに、心下痞堅して煩渇甚だし。木防已湯を与う。時として大陥胸湯を用ゆ。数日にして全く治す。

 北総佐原油屋の亭主、年五十余り、頭上冷えて大暑といえども頭を覆わざれば寝ること能わず、寝すれば数々夢見る。凡そ此の症を患うこと年久し。諸処に行いて治を求む。医皆何の由たるを知らず。余偶々至りて診するに心下痞堅して悸し、口舌乾燥す。即ち木防已去石膏加茯苓湯を与う。小便快利、頭もおいおい温まり、安眠夢見ることなし。一月にして全快す。

 京師河原町に或る人年四十処、右脇下に塊あり、大きさ盆の如し。これを按ずるに痛まず、凡そ斯の如くもの数年、医皆鼓脹となして治を難とす。余木防已去石膏加茯苓湯を与う。一月余り、頭上癰を発して膿す。脇下の塊、従いて減ず。出入り半年ほどして全く癒ゆ。

   

    心 下 痞 満 

 

 心下を按ずるに、痞 にてもなく、又 満にてもなく、手頭にくつりと応ずる物、乃ち十棗湯の症にして心下痞 満なり。然るに『類聚方集覧』等に痞を刪り 満とばかりあるは非なり。余此の症を初めて診し得たるは昔年郷にありしとき、一老婆冬より春に至りて頭汗自ずから出て流るる如し。余黄耆・麻黄の剤を与えるに効なし。或る時診するに手頭に応ずるもの有り、是必ず十棗湯ならんと此の方を用ゆるに一剤にして頭汗止みて再び出ず。

 

 一男子傷寒を患う。熱やや減じたるに心下を痛めること甚だし。下剤を与えるに治せず。心下を按ずるに手に応ずること前の件の如し。故に十棗湯を与う。下利数行痛み頓に除く。其の後此の症にあえば此の方を用いて効を奏す。腹診の妙手、術の熟練にあり、心を用ゆべし。

   

    拘 攣 

 

 拘攣は孔安国、論語縲絏の注に縲は黒索なり。絏は攣なり。罪人を拘える所以なり。又世に拘攣せらるなど云う。腹中を診するに手頭に当たりてかかわり引きつるものあり。是乃ち拘攣なり。『薬徴』に曰く、「芍薬の主治は結実し拘攣なり。又芍薬と大棗は大同小異なり。大棗は拘攣に似て細く琴の糸の如く、りんと引きつるもの攣引強急なり」『東洞遺書』に曰く、拘急は拘攣のこと。攣は引きつり急は急迫なり。芍薬の症、世に最も多し。の多少に従い、方得を求むべし。両脚のつけ根を探り、大絏の如きあり、これ芍薬甘草湯の腹症なり。心を潜めて診すべし。

 

 一女子年十六、左脚攣急して歩行甚だ苦しむ。余芍薬甘草湯を与えて数月にして治す。

 一婦所謂労症なるものを患い、殆ど危篤に至らんとす。診するに、裏急ことに甚だし。裏急は拘攣結実して腹底に沈着せるなり。故に小建中湯を与う。其の夜瞑眩し吐下傾くが如し。余が曰く、是薬力の徹せるなり、とて益々之を攻め、数十剤を服して癒ゆ。

  

    腹 満 

 

 腹満は腹のはるなり。腹脹とは少し異なるなり。張るは出されども内に物一杯みつるを云う。実満・堅満・ 満は中にこたえる物あり。又虚満は中に物なく柔らかなるを云う。腹満は厚朴の主治なり。堅満は大承気湯之を主る、 満は大陥胸湯の症なり。又腹満に 

虫の症あり。意を潜めて診すべし。 虫は腹中を探るに、手に障りてしかと知るものなり。を見て 虫として鷓鴣菜など用ゆるは臆見なり臆見は腹症家の恥じるところなり。慎まずは有るべからず。少翁・老翁妙に大承気湯を試用す。臍傍上下いささかにても結実せるもの大承気湯の症なり。余苦心して此の候を得たり。沈痼のものに用いて奇効を奏す。『建殊録』に痢疾にて噤口云々等に大承気湯を用いて腹症を具いいわす。乃ち腹候密にして言尽くしがたき有り。学者知らざるべからず。

    

    臍 下 不 仁 

 

 不仁の仁は桃仁・杏仁の仁にて仁実ならず、気の行なわたらずを云う。少腹不仁、手足不仁、身体不仁などみな麻木して自由ならず、覚えのなきなり。

 

 江都にて一男子を診す。臍下を按ずるに空洞にして手頭を没す。暑中なれども冷なること氷の如し。八味丸を与え数剤にして治す。

 或る男子、少腹拘急して腹力臍下に充たす。時として痺るること甚だし。且つ小便不利の症あり、前方にて治す。

 北総飲岡村に四国の行者二人、年久しく庵室に住す。園中麻茂れり、其の若芽を摘みてひたし物になして食す。其の夜身体痺れて両脚立つこと能わず、翌日隣家のもの行きてみるに、言語通ぜず酒に酔いたるものの如し。斯の如くなること一日にして夢の覚えたる如し。忽然として癒ゆ。又佐原の某、ある時麻の実二合ばかり炮りて食す。忽ち両脚痺れ行歩すること能わず、翌朝に至り癒ゆ。是を以て考えるに痺れて覚えなきを麻木・麻痺などと云うも麻より出たる名か。

 

    少 腹 急 結 

 

 急結は毒少腹に凝結して拘急をなす。痛む痛まざるに拘らず、すべて緩急の反対にて、急とは事急なるなり。腹状、大黄牡丹皮湯・調胃承気湯に似たり。大黄牡丹皮湯は臍下の堅塊を主とす。調胃承気湯は大黄甘草湯より来て急迫を主とす。凡そ少腹急結するもの、吐血下血の症あり。又狂を発するもの、急結を目的とす。急結の候、筆にて尽くしがたし。

    

    臍 下 堅 塊 

 

 臍下を按ずるに塊物、手にこたえて自若たるもの大黄牡丹皮湯之を主る。凡そ此の毒あるもの淋疾及び痔疾を患う。便膿血の症なり。梅毒、或いは癰疔を発するもの、此の方大いに効あり。大承気湯・桃核承気湯・大黄甘遂湯の腹状と大同小異なり。世に血塊と称するもの、此の症多し。此の症に処方相対すと雖も、沈痼なれば容易に治せず。しかし猥りに方を転ずべからず。

 

 予は項背に葛根湯、胸中に瀉心湯、心下に木防已湯、少腹に大黄牡丹皮湯を家塾の四剤と極めおきぬ。上の四方を腹候を審らかにし、熟試するときは天下の疾病、半を治せん。

 世に大小便秘閉して終いに死するもの数多し。予調胃承気湯・桃核承気湯・大黄甘遂湯・大黄牡丹皮湯に飛龍丸を兼用して即効を得ること少なからず。

    

 飛龍丸方 大黄 軽粉 二味当分糊丸、或いは蜜。

 徳本翁の秘方なりと云う。痼毒を治す。五、六分より、一銭二銭に至る。臍傍の結毒を証拠とす。諸眼疾、諸瘡毒、大小便閉、霍乱、不吐不下、膈噎翻胃、胸飲痛、大食停、その他、沈痼の疾を治す。方用は極めて博し。

  

    少 腹 満 敦 状 

 

 敦状は少腹を按ずるに、覆杯の状の如きもの是なり。此の症多く小便難く、経行不順のものあり。大黄牡丹皮湯と混んずべからず。礼の明堂位に有★氏の両敦★★★★六瑚周の八★註に皆黍★をもる器、是なり。予是に因って仲景の方は三代以上の遺方なるを知る。如何となれば張氏の★往古の遺方書にや敦状と譬えたることも有る★★★。其の故、張氏もやはり其のまま書すと思へり。東洞翁が論に柴胡加竜骨牡蛎湯は古方に非ず、又唐以下の方にも非ずと云えり。方意を考えるときは其の時代をも明らか知るべきなり。

   

 同郷に孀婦年三十余、少腹満して敦状の如し。経水下らず、数月を経て其の痛み堪えがたし。大黄甘遂湯を与う、一剤にして治す。

 野州今市にある婦人、咳嗽出るごとに少腹に響きて、小便自ら禁ずること能わず。余診するに敦状の如きものあり。前方を用いて治す。

 一病者大小便秘閉して将に斃れんとす。余前方を用いて治す。

   

    動 

 

 動は静の反なり。動きて止まずとき、はかしき意あり。胸腹を診するに泉の湧き出るが如きモックモック、或いはドッカドッカと手に応ずるもの是なり。『遺書』に曰く、「動は動脈に非ず、唯動なり」。東洞先生、傷寒論竜骨牡蛎方下に煩躁狂驚に因り実地に徴して動は竜蛎の主治と治定せしは千古未だ発せずの確論なり。

  

 銚子にて一病者を診す。喘息胸中動あり。自汗流るる如し。牡蛎湯を与う。影響の応の如くして愈ゆ。

 三州吉田にて一男子を診す。胸腹動あり、髪落ち、時として失精す。桂枝加竜骨牡蛎湯を与えて愈ゆ。

 一書生年二十処、気志欝閉短気ことに甚だし。診するに上逆して胸腹動あり。前方を与えて治す。

  

 

    

    

    付 録 

 

扁鵲曰く、病の在る所、是を毒と言うなり。病の応は大表に見われる。合わせ考える。上衝は上気なり。叉手頭汗衝逆と云うは、臆見なり。但叉手頭汗と云うべし。其の処以てを云うは臆なり。

眼目芒刺云々、上衝の証と定めるは不可なり。上衝は上衝、眼目芒刺は眼目芒刺なり。

頭上の毒は苓桂朮甘湯主ると、不可なり。悪寒桂枝湯主ると、不可なり。悪寒は麻黄附子の主るなり。

麻黄喘を主る。喘は呼吸のゼリゼリと声有るなり。又声聞かずして其の勢い有るものなり。

農吉是喘息や、兼ねて渇は則ち大青竜湯、渇無しは則ち小青竜湯。二方とも南呂丸を毎日六、七分づつ兼用。

感冒、風邪と云う治方なし。

発散の剤、臆見なり。方は用いる時が大事なり。此の病、此の方にて始終治すると云う 事を知りて用いる故に死と云えども方をかえずなり。

太陽病六経の名、我が党言わず。気欝気★欝せず。必ず毒あり。毒の形状を言うべし。外証・腹状は治の本なり。葛根湯亦然り。 

産後産前に拘らず、唯常人の如くして可なり。凡そ薬は瞑眩すれば病盛んに成るものなり。時随分丸散の類にて解すべし。

胸脇の指処はすべて胸腹にては中行を去りて、左右是脇なり。京門・章門に拘らず、小柴胡湯・大承気湯は病人にて疑うことなし。腹にて学ぶべし。中行の左右は皆脇なり。妨脹のことは我が党拘らず。今問うのこと病人にて学ばずは難なり。

竹葉石膏湯・麦門冬湯は我が党、枯燥を治すると云うは臆なり。

附子の瞑眩、毒の解すると解さずとなり。諸薬ともども瞑眩せざれば無効なり。先ず小剤、剤、是不可なり。方を得ず意なり。

水気の毒かの問いは不可。水気あらば水気を言わず。水気見ずして是水気の毒と云うは臆也。唯此の方、此の病を治することを知りて方を与うと謂うべし。

胸痺は病人胸ふさがると云う、是也。

呉茱萸・枳実・厚朴云々のこと、此の方は病人に方を処して治するを見て後、書を見ては会得すべし。此の方六十年来病人に試みて会得したることを書たるものにて唯見ては通り難し。

婦人食下れば則ち痛む。吐逆是其の病人を見ずは枳実湯・紫円  

会津噎膈病のこと紫円を用いて毒の尽きず故、用尽きする中に死するは扁鵲も之を救う能わず。

結胸は胸中のこと、心下満して 痛は胸中の毒の及びたるなり。人参・黄 ・甘遂・芒硝、のことに非ず、薬に軽重のことなし。毒の主なりに因って用う。

懊☆は世に所謂食傷にて吐す。前の胸中にて知るべし。

心下痞之を按じて濡なる者は、心下手に当たるもの有るは なり。

山下氏の★は心中煩悸する毒なり。故に大黄黄連湯を用いて治す。

拘急拘攣のこと、攣は引くなり、急は急迫。東都友人の説可ならず。

拘攣拘急の説、未だ通じず。病人にて学ぶべし。拘急拘攣と と混じて分かち難し。勉めるべきかな。

動は動脈に非ず、唯動気なり。

☆★と悸と同証なり。

泄瀉も痢疾も吾が党は差別なし。唯毒の所在を視る。

急結一事の急逆なり。

腹鳴は按じても按ぜずしても腹鳴なり。腹鳴に柴胡湯もあり、半夏瀉心湯もあり、附子粳米湯もあり、考えるべし。

小結胸、大結胸は後世の名なり。小陥胸、大陥胸湯方にて用ゆべきの毒を知るべし。足下小柴胡湯を用い、

小青竜湯の症にして小青竜湯の徹せずは薬、病毒と勝つ能わずなり。薬力未だ徹せずかな。 また薬方の訛りかは病人を見れずんば知れず。

死するまでは皆主方あり。

腹状詳しくならずは処方せずなり。

石膏黄連甘草湯を用いて白虎湯を用いずは黄連の主毒ある故なり。

痘毒は紫円能く治す。死は唯死なり。扁鵲も不能なり。紫円十載未満は三分斗日々毒の尽きるまで用うなり。すべて危急の病人、好んで治すべからずなり。病家より死をゆだねる時に為すべきなり。然らずは道の害なり。

倒壁円の事、世伝往々皆是の如く候。七宝丸を初めて用いる所も皆此の方がせしなり。用ようも同じ。然れし後、七宝丸朝一銭目、夕一銭目、是同じからず。朝五分、夕五分、朝夕一銭目なり。今時用いる所の七宝丸は昔昨と異なるなり。

近年祖父百年祥忌に相当り候。故に★★は二月下旬より芸州へ罷め下り、祭祀執行申すべしと存じ候。帰京如月下旬に相成れり故、夫れより道中暑さに趣く故、秋八月は関東下り

向うと存じ立て候。共に得て齢七十。如何難斗候。  頓首         東洞老人

 

 右は翁の門人某なる者、惑える事、且つ翁の難症を治せしを、道隔つれば備えに書簡を以て問いしを、翁また行行に書して解示さしける。書は草体にして国語を交え、文章簡易にして人をして見やすからしむ。実に切情感じるべし。子孫翁の自筆たる故、★★となし、珠宝にして蔵す。予の友、偶々借り得て写したるを、 予も又之を写して蔵となす。

  

(行行:わきめもふらず進むさま)